ドレパナの海戦
概要
執政官クラウディウス・プルケルが出撃の前に鶏で占い、鶏が餌を食べないと「食べないなら飲め」と海に投げた。ローマの唯一の海での大敗。93隻を失った。ローマは6年、艦隊を持てなかった。神々への不敬の話として、ずっと語られた。
場所
38.02°N 12.51°E · イタリア・シチリア
本文
第一次ポエニ戦争が始まって15年、ローマとカルタゴの戦いはシチリアの西の端に追い込まれていた。紀元前260年にミュラエの海戦で初めて海で勝ったローマは、紀元前256年にはエクノモス岬の海戦でカルタゴの艦隊を破ってアフリカに上陸したが、遠征は失敗に終わる(レグルスのアフリカ遠征)。その後もローマは嵐で何度も艦隊を失った。それでもローマは、カルタゴのシチリアでの最後の拠点、西端の港町リリュバエウム、いまのマルサラを陸と海から囲んでいた。
リリュバエウムの北およそ25キロには、もう一つのカルタゴの港ドレパナがあった。ギリシア語で「鎌」を意味する名で、湾を抱える岬の形から来ている。いまのトラーパニである。ここにはアドヘルバルが率いるカルタゴの艦隊がいて、包囲されたリリュバエウムを助けていた。

紀元前249年、執政官プブリウス・クラウディウス・プルケルは、このドレパナの艦隊を不意打ちで叩こうと考えた。夜のうちに123隻の艦隊で港を出て、夜明けにドレパナの港に入っている敵を襲う計画である。歴史家ポリュビオスによれば、計画そのものは悪くなかった。だが、夜の航海で艦隊の列は乱れ、先頭の船が港に着いたころ、後ろの船はまだ遠く離れていた。
アドヘルバルはローマの艦隊が近づくのを見ると、すぐに船を港の外へ出し、沖に広がって並んだ。港に入りかけていたローマの船は向きを変えようとして互いにぶつかり、混乱した。ローマの艦隊は、沖からのカルタゴの艦隊と海岸の間に押し込められる形になった。後ろへ下がる余地のないローマの船は次々に岸へ追いつめられ、乗り上げたり、捕らえられたりした。カルタゴの漕ぎ手は熟練しており、狭い海で船を自在に操った。123隻のうち93隻が失われ、クラウディウスは30隻ほどを連れて逃げるのがやっとだった。カルタゴの側には、ほとんど損害が無かったという。

ローマが海でこれほど大きく負けたのは、この戦争で唯一のことだった。しかも不運は続く。同じ年、もう一人の執政官ルキウス・ユニウス・プッルスが率いた艦隊と輸送船団は、カルタゴの艦隊に追われたあと、シチリアの南岸で嵐に遭い、ほぼ全滅した。ローマはこの一年で、艦隊を二つ失ったのである。
この敗北には、有名な逸話がつきまとう。ローマの軍は、戦いの前に、神聖な鶏に餌をやって吉凶を占う習わしがあった。鶏がよく餌を食べれば吉である。出撃の前、鶏が餌を食べなかったと聞いたクラウディウスは、食べたくないなら飲ませてやれと言って、鶏を海に投げ込ませたという。この話はポリュビオスには無く、のちのキケロや歴史家たちが伝えるものである。キケロは、神々への不敬が敗北を招いた例としてこの話を引いている。事実かどうかは確かめようがないが、ローマ人はこの話を、神々を軽んじた者の戒めとして長く語り継いだ。
ローマに呼び戻されたクラウディウスは、国家への反逆の罪で訴えられ、重い罰金を科された。さらに、元老院から独裁官を指名するよう命じられると、自分の家の解放奴隷の子を指名して人びとを呆れさせたと伝えられる。彼は数年のうちに世を去った。クラウディウス家は古くからの名門だったが、傲慢な一族という評判がついて回った。数年後、彼の妹が劇場の帰りに群衆に道をふさがれ、兄がまた艦隊を沈めて人を減らしてくれればいいのに、と言い放って罰金を科された話も伝わっている。
ドレパナの敗北のあと、ローマは6年ほど、大きな艦隊を持つことができなかった。国庫は戦争で空になっていた。この間、カルタゴはシチリアで勢いを取り戻し、ハミルカル・バルカがシチリアの山に拠ってローマ軍を悩ませ続ける。陸の戦いは行き詰まった。
戦いを終わらせたのは、ローマの市民たちだった。紀元前242年、裕福な市民たちが自分の財産を出し合い、勝てば国が返すという約束で、200隻の五段櫂船を造った。その艦隊が紀元前241年、アエガテス諸島の海戦でカルタゴの艦隊を破り、23年に及んだ戦争はローマの勝利で終わる。ドレパナの大敗から8年後のことだった。