サグントゥム攻囲
概要
ハンニバルがローマの同盟市サグントゥムを攻略し、第二次ポエニ戦争の引き金となった。
場所
39.68°N -0.27°E · スペイン・バレンシア州
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮本文
第一次ポエニ戦争に敗れたカルタゴは、シチリアを失い、まもなくサルデーニャもローマに奪われた。重い賠償金を背負ったカルタゴで、新しい富と兵の供給地を求めてイベリア半島へ渡ったのが、将軍ハミルカル・バルカである。紀元前237年のことだった。ハミルカルは半島の南部の銀山と部族を次々に押さえ、彼が戦死したあとは娘婿のハスドルバルが後を継いで、半島の東南岸に新カルタゴ(いまのカルタヘナ)を築いた。
ローマはカルタゴの勢力がイベリア半島で急速に膨らむのを警戒した。紀元前226年ごろ、ローマはハスドルバルと取り決めを結び、カルタゴは武器を持って半島の北東部を流れるエブロ川を越えないことを約束した。エブロ条約である。ローマは北イタリアのガリア人との戦いを控えており、南の背後を固めておきたかった。

サグントゥムは、地中海に面した丘の上の町で、いまのスペインのバレンシアの北にあたる。エブロ川よりずっと南にあり、条約の言葉どおりに読めば、カルタゴの手が届く側に位置していた。だがこの町はローマと友好の関係を結んでいた。その関係がいつ始まったのか、エブロ条約より前なのか後なのかは、史料からははっきりしない。町の中ではローマに近い派とカルタゴに近い派が争っていて、ローマが仲裁に入り、カルタゴ派の指導者たちが処刑されたこともあったとポリュビオスは書く(ポリュビオス)。
紀元前221年、ハスドルバルが暗殺されると、軍は26歳前後のハンニバル・バルカを総司令官に選んだ。ハミルカルの長男である。父に連れられて9歳で半島に渡るとき、祭壇の前で、生涯ローマの友にはならないと誓わされた、という話をハンニバルは晩年に語ったと伝えられる。ハンニバルは2年をかけて半島の内陸の部族を征し、足場を固めた。ローマの使者は新カルタゴに来て、サグントゥムに手を出すなと警告した。
紀元前219年の春、ハンニバルはサグントゥムを囲んだ。町は堅固な城壁に守られ、住民は激しく抵抗した。ハンニバル自身も城壁に近づいたところを投げ槍で腿を打たれ、重傷を負ったとリウィウスは書く。カルタゴ軍は攻城の塔と破城槌で壁を崩し、崩れた所に新しい壁が築かれ、という攻防が続いた。8か月の包囲の末、町は落ちた。リウィウスによれば、町の有力者たちは財宝を広場に積み上げて火をかけ、多くの者がその火に身を投じたという。捕らえられた住民は兵に分け与えられ、奪った財宝はカルタゴへ送られた。
その間、ローマはサグントゥムに一兵も送らなかった。ちょうどアドリア海の向こうのイリュリアで戦いを抱えていたこともあり、元老院は議論を重ねるだけだった。町が落ちてから、ローマはカルタゴに使節を送り、ハンニバルとその側近の引き渡しを求めた。
カルタゴの元老院で、使節の長ファビウスは、着ていたトガのひだを手でつまみ、ここに平和と戦争を持ってきた、どちらでも好きなほうを選べ、と言った。カルタゴの側が、どちらでもあなたの好きなほうを渡せ、と答えると、ファビウスはひだを開いて、ならば戦争を渡す、と言った。カルタゴの議員たちは、受けて立つ、と声をそろえたという。リウィウスの描くこの場面は、そのままの事実かどうかは別として、ローマの人々が戦争の始まりをどう記憶したかをよく示している。
紀元前218年の春、ハンニバルは新カルタゴを出てエブロ川を渡り、ピレネーを越え、秋にはアルプスを越えてイタリアに入った(ハンニバルのアルプス越え)。第二次ポエニ戦争の始まりである。ローマはその後、トラシメヌス湖、カンナエと、立て続けに大敗を喫する(カンナエの戦い)。

この戦争の責任がどちらにあったのかは、古代から論じられてきた。カルタゴの側から見れば、サグントゥムはエブロ川の南にあり、条約に違反していない。それにローマとカルタゴが第一次ポエニ戦争の終わりに結んだ条約は、その時点の互いの同盟者を攻めないことを定めていたが、サグントゥムはその後に結ばれた友好国にすぎない。ローマの側から見れば、ローマの友を攻めたことそのものが戦争の理由になる。ポリュビオスは、サグントゥムは口実にすぎず、本当の原因は、ハミルカルのローマへの怒りと、サルデーニャを奪われたカルタゴの恨み、そしてイベリア半島でのカルタゴの成功にあったと論じた。
もっとも、私たちが読める記録はポリュビオスやリウィウスなど、ローマの側に立つ書き手のものばかりで、カルタゴの人々がこの戦争をどう考えていたかを記した文章は残っていない。ハンニバルに同行したギリシア人の歴史家もいたが、その書物は失われた。
サグントゥムは戦争の途中でローマ軍に取り戻され、のちにローマの町として再建された。いまのサグントの丘には、ローマ時代の劇場と、中世の城壁が残っている。ローマは、見捨てた同盟市の陥落を、開戦の正義の物語に変えた。そして「サグントゥムの忠誠」は、最後まで盟約を守り抜いた町を讃える言葉として語り継がれた。