メタウルス川の戦い
概要
ハンニバルの弟ハスドルバルが援軍を率いてアルプスを越えた。手紙がローマに捕えられ、二人の執政官が合流して弟を破った。ハンニバルは弟の首を陣に投げ込まれて、それを知った。「カルタゴの運命が決まった」。
場所
43.72°N 12.95°E · イタリア・マルケ州
関わった人(1)
ハスドルバル・バルカBC245年頃–BC207年 · 戦死本文
紀元前218年、ハンニバル・バルカはスペインからアルプスを越えてイタリアへ攻め込み(第二次ポエニ戦争)、紀元前216年のカンナエの戦いでローマ軍を壊滅させた。南イタリアのカプアやタレントゥムなど多くの町がローマから離れてカルタゴについた。だがローマは、持久戦(ファビウスの持久戦)に切り替えて正面からの決戦を避け、ローマに近いラテン人の植民市や中部イタリアの同盟市の多くも、最後まで離れなかった。紀元前211年にはカプアが取り戻され、紀元前209年にはタレントゥムも落ちた。ハンニバルはイタリアで10年戦い、何度勝っても、ローマを屈服させることができずにいた。本国からの援軍はほとんど届かず、兵は減っていった。
そこへ、もう一つのカルタゴ軍が向かってきた。ハンニバルの弟ハスドルバル・バルカは、スペインでローマ軍と戦っていたが、紀元前208年、若いスキピオ(大スキピオ)とのバエクラの戦いのあと、軍を率いてスペインを抜け出した。ガリアで冬を越し、紀元前207年の春、兄より楽にアルプスを越えて北イタリアへ下った。ガリア人やリグリア人が加わり、軍は数万に膨らんだとされる。兄弟の二つの軍が一つになれば、ローマは再び危うくなる。
ハスドルバルは、兄と中部イタリアのウンブリアで落ち合おうと書いた手紙を、ガリア人とヌミディア人の騎兵6人に託して南へ送った。騎兵たちはイタリアを縦断したが、兄の居場所を探して道に迷い、南のタレントゥムの近くでローマの兵に捕まった。手紙は、南でハンニバルと向き合っていた執政官ガイウス・クラウディウス・ネロのもとへ届けられた。
ネロは、執政官としては異例の決断をした。自分の持ち場を離れ、北の同僚を助けに行くのである。彼は全軍から選んだ歩兵6000と騎兵1000を連れて、夜のうちに陣を抜け出した。残った兵には、いつもどおりに陣を守り、火を焚き続けるよう命じた。ハンニバルはそれに気づかなかった。ネロの兵は、アドリア海沿いの道を北へ急いだ。沿道の人々は、食べ物や馬を持って道に並び、兵を励ましたとリウィウスは書いている。ネロは、北でハスドルバルと向き合っていたもう一人の執政官マルクス・リウィウス・サリナトルの陣に、夜の闇にまぎれて入った。敵に兵が増えたと悟られないよう、天幕は増やさず、もとの兵の天幕に詰めて寝た。
翌朝、ハスドルバルは、敵の陣の様子がおかしいことに気づいた。見慣れない古びた盾があり、長旅で痩せた馬がいる。兵の数も多い。そして陣の中でラッパが、いつもの一度ではなく二度鳴った。執政官が二人いるしるしである。南の兄が敗れて、ネロが北へ来たのではないか。ハスドルバルは戦わずに夜のうちに陣を引き払い、退こうとした。だが道案内が逃げ出し、メタウルス川の岸を、渡れる浅瀬を探してさまよううちに、ローマ軍に追いつかれた。
ハスドルバルは戦うしかなかった。彼は10頭ほどの象を前に出し、スペイン兵を右に、ガリア人を丘の上の左に置いた。戦いはローマの左翼とハスドルバルの右翼の間で激しくなったが、ローマの右翼にいたネロの前は丘に阻まれて動けなかった。ネロは兵の一部を引き抜き、自軍の背後を回って反対側へ出て、敵の右翼の脇と後ろに襲いかかった。カルタゴ軍は崩れた。勝ち目が無いと見たハスドルバルは、ローマの隊列に馬で突っ込んで死んだ。父ハミルカルと兄ハンニバルの名に恥じない最期だった、とリウィウスは書いている。死者は、ポリュビオスによればカルタゴの側が1万人ほど、ローマの側が2000人ほどだった。
ネロは、その夜のうちに南へ取って返し、6日ほどで自分の陣へ戻ったとリウィウスは伝える。そして、ハスドルバルの首を、ハンニバルの陣の前に投げ込ませた。さらに、捕虜にしたアフリカの兵を二人、鎖を解いてハンニバルのもとへ行かせ、見たことを話させた。弟の首を見たハンニバルは、カルタゴの運命を見た、と言ったと伝えられる。
ハンニバルは南の端のブルッティウムへ退き、そこで4年近く持ちこたえたが、もう攻勢に出ることはなかった。紀元前204年、スキピオがアフリカへ渡ると、ハンニバルは本国に呼び戻され、紀元前203年にイタリアを去った。翌年のザマの戦いで、カルタゴはスキピオに敗れた。
ローマでは、二人の執政官の凱旋式が行われた。戦場がリウィウスの持ち場だったので、凱旋の戦車に乗ったのはリウィウスで、ネロは馬に乗ってその後ろに従った。だが人々の喝采は、国を縦断して戦いを決めたネロに集まった、とリウィウスは書いている。ネロの家はローマの名門クラウディウス家の一族で、二百年近くのちのアウグストゥスの時代、その血を引くティベリウス(のちの皇帝)とドルススの兄弟が戦功を上げると、詩人ホラティウスは、ローマがネロ家に負うものの証人はメタウルス川だ、と歌った。