小スキピオ
概要
カルタゴを滅ぼし、ヌマンティアを陥落させた。
別名
スキピオ・アエミリアヌス
所属
共和政ローマ関わったできごと(2)
カルタゴ滅亡BC146年 · ローマ側 · 総指揮ヌマンティア陥落BC133年 · ローマ側 · 総指揮本文
小スキピオは紀元前185年ごろ(184年とする説もある)、ローマの名門アエミリウス家に生まれた。実の父ルキウス・アエミリウス・パウルスは、のちにマケドニア王国を滅ぼす将軍である。幼いうちに、大スキピオの長男の養子となった。養父は病弱で公職につけず、跡継ぎを必要としていた。こうして少年は、アエミリウス家の血とスキピオ家の名を併せ持つことになり、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスと名のった。大スキピオの孫にあたるので、祖父と区別して小スキピオと呼ばれる。

紀元前168年、17歳の彼は実父に従ってギリシアへ出陣し、ピュドナの戦いでマケドニア王ペルセウスの軍が壊滅するのを目にした。戦いの後、若者は夜になっても戻らず、父を心配させたが、敵を追って深追いしていたのだった。父は戦利品の中から、マケドニア王の蔵書だけを息子たちに与えたという。
この戦いの後、ギリシアのアカイア同盟から千人の有力者が人質としてイタリアへ送られた。その中に、のちの歴史家ポリュビオスがいた。小スキピオはポリュビオスと親しくなり、ローマにとどまれるよう取り計らって、師として、また友として生涯そばに置いた。ポリュビオスは、ローマがなぜ半世紀あまりで地中海世界を制したのかを問う『歴史』を書き(ポリュビオス『歴史』)、その中で若い友人の人柄を詳しく描いている。小スキピオのまわりには、喜劇作家テレンティウスや哲学者パナイティオスら、ギリシアの教養を好む人々が集まった。

紀元前151年、ヒスパニアの戦いに軍団副官として志願し、敵の戦士との一騎打ちに勝ち、包囲した町の城壁に一番に登った者に与えられる冠を受けて名を上げた。紀元前149年に第三次ポエニ戦争が始まると、再び軍団副官としてカルタゴへ渡った。執政官たちの戦いぶりは振るわず、包囲は行き詰まったが、小スキピオだけはたびたび危うい場面から部隊を救い、カルタゴの側からも一目置かれた。この戦争を強く唱えた大カトーは、死の直前に、ホメロスの一節を引いて、彼だけが正気で、ほかの者は影のようにさまよっている、と評したと伝えられる。
紀元前147年、小スキピオは按察官に立候補したが、民会は彼を執政官に選んだ。執政官になるにはまだ年齢が足りず、本来は資格が無かったが、民衆の熱望に押され、元老院は法の適用を1年停止して認めた。小スキピオはカルタゴの港の入り口を防波堤で塞いで海からの補給を断ち、紀元前146年の春、城内に突入した。市街戦は6日6晩続き、兵は家々を一軒ずつ奪い、屋根から屋根へと渡りながら進んだ。最後に城塞ビュルサに立てこもった人々が降伏し、生き残った5万人ほどが奴隷として売られた(カルタゴ滅亡)。

燃え落ちるカルタゴを見つめながら、小スキピオは涙を流し、ホメロスの『イリアス』の一節を口にした(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)。聖なるイリオスも、プリアモスも、その民も、滅びる日が来るであろう。そばにいたポリュビオスが何を思っているのかと尋ねると、いつか自分の祖国にも同じ運命が来るのではないかと恐れている、と答えたという。この場面は、ポリュビオスの記述をもとに後の歴史家たちが伝えている。元老院の命により、町は徹底して破壊された。その土地に塩をまいたという話は広く知られているが、古代の史料には見えず、近代になってから作られたものとされる。
紀元前142年には監察官を務め、古いローマの規律を重んじる厳しい姿勢をとった。その後、東方の諸国を回る使節団を率いて、エジプトのアレクサンドリアなどを訪れている。

ヒスパニアでは、ケルト系の人々が住むヌマンティアが、10年近くにわたってローマ軍を退け続けていた。紀元前137年には、執政官マンキヌスの軍が包囲されて屈辱的な条約を結ぶ事件まで起きた。紀元前134年、民会は再び法の例外を設けて、小スキピオを2度目の執政官に選んだ。小スキピオはまず、だらけきった兵から商人や娼婦を追い払い、規律を立て直した。そのうえで決戦を避け、全長9キロにわたる壁と砦で町をぐるりと囲み、川も封じて、飢えさせる作戦をとった。1年近い包囲の後、紀元前133年、ヌマンティアは降伏した。多くの住民は降伏の前に自ら命を絶ったと伝えられる。生き残った人々は奴隷として売られ、町は破壊された(ヌマンティア陥落)。このとき小スキピオの陣営には、若いマリウスがいた。
ヌマンティアにいる間に、ローマでは義弟のティベリウス・グラックスが農地改革を進め、殺された。妻のセンプロニアはティベリウスの姉である。知らせを聞いた小スキピオは、ホメロスの『オデュッセイア』の一節を引き、このようなことをする者は誰であれ同じように滅びるがよい、とつぶやいたという。帰国後の演説でも、ティベリウスは殺されて当然だったと述べ、改革派の民衆の怒りを買った。

紀元前129年、土地の分配の委員会がイタリアの同盟市の人々の土地にまで手を伸ばすと、小スキピオは同盟市の側に立ってこれに反対した。民会で演説をする予定だった日の翌朝、小スキピオは寝室で死んでいるのが見つかった。56歳前後だった。暗殺の噂が広まり、改革派の政治家や、夫と不仲だった妻センプロニア、さらには義母コルネリアまでが疑われたが、正式な取り調べは行われず、真相はいまも分からない。
後の時代、キケロは著作『国家論』で小スキピオを主人公に据え、理想の政治家として語らせた。その最後の章『スキピオの夢』では、夢に現れた祖父大スキピオが、カルタゴの滅亡と、その後の孫の運命を予言する。カルタゴを滅ぼした将軍は、ローマの勝利の絶頂で、その行く末への不安を誰よりも強く感じていた人物として記憶された。