マシニッサ
概要
カルタゴ側でスペインを戦い、スキピオに乗り換え、ザマで騎兵を率いた。ヌミディアの王になり、50年、カルタゴの土地を削り続け、90歳で馬に乗り、その挑発が第三次ポエニ戦争になった。
所属
ヌミディア関わったできごと(1)
ザマの戦いBC202年 · ヌミディア騎兵本文
マシニッサは紀元前238年ごろ、北アフリカのヌミディアに生まれた。ヌミディアの人びとは、東のマッシュリ族と西のマサエシュリ族に分かれ、マシニッサの父ガイアは東のマッシュリ族の王だった。若いころはカルタゴで育ったとされ、カルタゴの言葉と習慣を身につけた。カルタゴの有力者ハスドルバル・ギスコの娘ソフォニスバと婚約していたとも伝えられる。

第二次ポエニ戦争が始まると、マシニッサはヌミディア騎兵を率いてカルタゴ側でスペインを戦った。紀元前211年、スペインのローマ軍を率いていたスキピオ兄弟が相次いで討たれた戦いにも加わっている。だが紀元前206年、イリパの戦いでカルタゴ軍が若い大スキピオに大敗すると、潮目が変わった。捕虜になったマシニッサの甥を、スキピオが贈り物をつけて送り返したことがきっかけで、二人は密かに会い、マシニッサはローマの側へ移ったとされる。
同じころ父ガイアが死に、東の王国は継承争いで割れた。西の王シュファクスがその混乱に乗じて東を奪い、カルタゴはシュファクスを味方につけるため、ソフォニスバを彼に嫁がせた。マシニッサは国も婚約者も失い、わずかな騎兵を連れて山にこもった。何度も追い詰められ、深手を負って死んだと噂されたこともあったが、そのたびに戻ってきた。

紀元前204年、スキピオがアフリカに上陸すると、マシニッサは騎兵を連れて合流した。リウィウスはその数を200とも2000とも伝わると書いている。翌年、ローマ軍はカルタゴとシュファクスの連合軍を「大平原」で破り、マシニッサはスキピオの副官ラエリウスとともにシュファクスを追って捕らえ、その都キルタに入った。そこで彼はソフォニスバと再会し、その日のうちに結婚した。ローマ人の手に渡されたくないという彼女の願いに応えたのだという。しかしスキピオは、シュファクスの妻はローマの戦利品だとして引き渡しを求めた。マシニッサは毒を送り、ソフォニスバはそれを飲んで死んだ。リウィウスは、夫からの婚礼の贈り物として受け取ると彼女が言ったと書いている。悲劇としてよくできすぎた話で、後世の脚色も混じっているとみられるが、この話はのちに多くの戯曲や絵画の題材になった。
紀元前202年のザマの戦いで、マシニッサは歩兵6000と騎兵4000を率いて加わり、ローマ軍の右翼に立った。両翼の騎兵がカルタゴの騎兵を戦場の外へ追い払い、引き返してハンニバル・バルカの歩兵の背後を突いたことが、勝敗を決めた。ハンニバルを破った決め手の一つは、かつてカルタゴで育ったヌミディアの騎兵だった。

翌年のカルタゴの降伏で、カルタゴはローマの許しなく戦争をすることを禁じられ、マシニッサには「祖先が持っていた土地」が認められた。東西を合わせたヌミディアの王となった彼は、この曖昧な一文を武器に、50年にわたってカルタゴの領土を少しずつ削り取っていった。カルタゴが抗議しても、戦争はできない。ローマに訴えると、ローマの使節はたいていマシニッサに有利な裁定を下すか、結論を出さずに帰った。
マシニッサは国の中も変えた。ポリュビオスは、それまで実りがないと思われていたヌミディアの土地を、彼が穀物の育つ畑に変えたと書いている。その穀物は、戦争のたびにローマ軍へも送られた。キルタを都とする宮廷にはカルタゴの言葉と文化が入り、部族の連合だったヌミディアは、一人の王が治める国の形を取り始めた。
紀元前150年、ついにカルタゴは堪えきれず、マシニッサと戦い、敗れた。ローマはこれを条約違反とみなし、翌年カルタゴ滅亡へ至る第三次ポエニ戦争を始めた。マシニッサは自分がカルタゴを手に入れるつもりだったともいわれ、ローマが自分で乗り出したことを喜ばなかったと伝えられる。

紀元前148年、マシニッサは90歳前後で死んだ。ポリュビオスは、彼が最期まで丈夫で、一日中立ち続け、鞍に助けなしで乗れたと書く。死んだとき4歳の息子がいたとも伝わる。後継は彼の遺言で小スキピオに託され、王国は三人の息子に分けて治められた。その孫が、のちにローマを相手にユグルタ戦争を起こすユグルタである。カルタゴを滅ぼした道を開いたのはマシニッサだったが、50年後には彼の王家がローマと戦うことになった。アルジェリアやチュニジアでは、いまも北アフリカの人びと自身の王国を築いた人物として記憶されている。