人物

ピュロス

Pyrrhus of Epirus
BC319年 – BC272年(享年47・推定)
エピロス重要度 3

概要

アレクサンドロスの遠縁で、その再来と言われた。イタリアでローマに二度勝って兵を失い、シチリアでカルタゴと戦い、帰ってマケドニアを取り、アルゴスの市街戦で老婆の投げた瓦で死んだ。ハンニバルは「最高の将軍」と呼んだ。

関わったできごと(1)

ヘラクレアの戦いBC280年 · 王

本文

ピュロスは紀元前319年ごろ、ギリシア北西部の山がちな国エピロスで、モロッソイ人の王の子として生まれた。王家は、トロイア戦争の英雄アキレウスの子孫を名乗っていた。アレクサンドロス3世の母オリュンピアスもこの王家の出で、ピュロスはアレクサンドロスの遠い親戚にあたる。アレクサンドロスが東方遠征の果てに世を去ったのは、ピュロスが生まれる数年前のことだった。

生まれた時代は、アレクサンドロスの後継者たちが帝国の分け前を争うディアドコイ戦争のさなかだった。ピュロスが2歳のとき、父は国を追われ、幼い王子は家臣に抱えられて北のイリュリアへ逃れ、そこの王に育てられた。12歳で王位に戻されたが、17歳で再び追われた。若いピュロスは、姉の夫である武将デメトリオスのもとに身を寄せ、紀元前301年のイプソスの戦いでその側について戦った。敗れたあとは、和睦の人質としてエジプトのプトレマイオスの宮廷へ送られた。ここで彼は王妃に気に入られ、その連れ子の娘を妻に迎え、兵と資金を得て、紀元前297年、エピロスの王位を取り戻した。

イプソスの戦いに関わる図版:The Battle of Ipsus
イプソスの戦いWikimedia Commons James D. McCabe · Public domain

ピュロスは生まれながらの戦士だった。戦場では先頭に立ち、一騎打ちにも応じた。人々は、その勇猛さと身のこなしに、アレクサンドロスの面影を見たという。彼は王国の力を広げようとし、一時はマケドニアの半分を手に入れたが、すぐに失った。

紀元前281年、南イタリアのギリシア人の港町タレントゥムが、ローマとの争いに助けを求めてきた。ローマはイタリア半島を南へ勢力を広げ、ギリシア人の町々を飲み込もうとしていた。ピュロスは、イタリアとシチリアを手に入れ、西の大帝国を築く夢を描いて応じた。紀元前280年、彼は2万を超える兵と20頭ほどの戦象を連れて海を渡った。

Pirro - Marte
Wikimedia Commons Andrea Puggioni · CC BY 2.0

最初の戦いはヘラクレアの戦いだった。ローマ兵は、見たこともない巨大な象に驚き、その突進に崩れた。ピュロスは勝ったが、自分の兵も多く失った。翌年、アスクルムで再びローマ軍を破ったが、損害はさらに大きかった。祝いの言葉をかけられたピュロスは、もう一度ローマに勝てば、我々は破滅する、と答えたとプルタルコスは伝える。勝っても割に合わない勝利を「ピュロスの勝利」と呼ぶのは、ここから来ている。ローマは何度負けても、すぐに新しい軍団を補ってきた。ピュロスには、失った古参の兵を補う手立てがなかった。

ピュロスは、戦いと並んで交渉も試みた。雄弁家キネアスを使者としてローマへ送り、講和を持ちかけた。元老院が傾きかけたとき、年老いて目の見えなくなった元老アッピウス・クラウディウスが、息子たちに支えられて議場に現れた。アッピア街道を造らせたあの人物である。彼は、敵がイタリアにいる限り、講和は無いと説き、元老院を押し戻した。キネアスは王に、ローマの元老院は王たちの集まりのようだった、と報告したという。

Pyrrhus MAN Napoli Inv6150 n03
Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

敵ながら互いを認め合う話も伝わる。ローマの使者ファブリキウスが捕虜の返還を求めて訪れたとき、ピュロスは金を贈って買収しようとし、次には幕の陰に隠した象に突然鳴かせて脅そうとしたが、ファブリキウスは眉一つ動かさなかった。のちに、ピュロスの侍医が王を毒殺してやろうとローマ側に持ちかけたとき、ファブリキウスはそれを王に知らせた。ピュロスは感じ入り、捕虜を身代金なしで返した。この男を正しい道から外させるのは、太陽の進路を変えるより難しい、と王が言ったという話もある。

紀元前278年、ピュロスはシチリアのギリシア人の町々に招かれ、島へ渡った。島のカルタゴ勢力を次々に破り、西の端のリリュバイオン以外のほとんどの地から追い払った。だが、彼は町々に重い税と兵役を課し、王として振る舞ったため、ギリシア人たちの心は離れていった。紀元前275年、島を去るとき、彼は、なんと見事な格闘の場を、ローマとカルタゴに残していくことか、と言ったと伝えられる。その言葉どおり、10年あまり後、この島を舞台にローマとカルタゴの長い戦争が始まる。イタリアに戻ったピュロスは、ベネウェントゥムでローマ軍に敗れ、わずかな兵とともにエピロスへ引き揚げた。

父エアキデスへの反乱後に幼いピュロスが救出される場面(ニコラ・プッサン画、1634年頃)
父エアキデスへの反乱後に幼いピュロスが救出される場面(ニコラ・プッサン画、1634年頃)Wikimedia Commons Nicolas Poussin · Public domain

それでもピュロスは止まらなかった。紀元前274年にはマケドニアに攻め込み、王アンティゴノス・ゴナタスを破って王位を手に入れた。だが、彼が雇ったガリア人の傭兵が、マケドニアの古都の王墓を荒らして財宝を奪ったため、マケドニアの人々の心は離れた。紀元前272年、ピュロスはスパルタを攻めて失敗し、続いてペロポネソス半島のアルゴスの内紛に介入した。

夜、ピュロスの軍はアルゴスの町に入り込んだが、城門は象の背の塔がつかえて通れず、狭い路地は兵でごった返した。夜が明けると、町の住民とアンティゴノスの軍が反撃し、激しい市街戦になった。ピュロスが一人のアルゴスの若者と戦っていたとき、屋根の上で戦いを見ていた若者の老いた母が、屋根瓦をはがして投げつけた。瓦は王の首の後ろに当たり、ピュロスは馬から落ちた。そこへ駆けつけたアンティゴノスの兵が、その首をはねた。46歳ほどだった。

幼いピュロスがグラウキアス王に引き合わされる(ニコラ=ルネ・ジョラン画、1779年頃)
幼いピュロスがグラウキアス王に引き合わされる(ニコラ=ルネ・ジョラン画、1779年頃)Wikimedia Commons Nicolas-René Jollain · Public domain

アンティゴノスの息子が首を持って父のもとへ駆けつけると、アンティゴノスは杖で息子を打ち、野蛮な振る舞いだと叱った。そして顔を覆って泣き、ピュロスの遺体を王にふさわしい礼をもって火葬したという。

ピュロスは戦術の書や回想録を書き残したと伝えられ、後世の将軍たちに読まれた。のちにハンニバル(ハンニバル・バルカ)は、史上最高の将軍は誰かと問われ、第一にアレクサンドロス、第二にピュロス、第三に自分を挙げたという話がある。一方プルタルコスは、アンティゴノスの言葉として、ピュロスをサイコロの賭けの名手にたとえている。良い目を次々に出すが、出た目をどう使えばよいかを知らない、と。勝つことは知っていたが、勝利を何かに変えることを知らなかった王だった。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC319年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →