傭兵戦争
概要
第一次ポエニ戦争の給料をもらえない傭兵2万人が、カルタゴを囲んだ。3年。ハミルカルが鎮めた。フロベールの『サランボー』の話。その間にローマがサルデーニャを取った。ハミルカルは息子に、ローマを憎む誓いをさせた。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
関わった人(1)
ハミルカル・バルカBC275年頃–BC228年冬 · 鎮圧本文
BC241年、第一次ポエニ戦争が終わった。シチリアでローマと戦ってきたカルタゴの軍は、市民の兵ではなく、金で雇われた傭兵が中心だった。ギリシア人、ガリア人、イベリア人、リグリア人、バレアレス諸島の投石兵、そしてカルタゴの支配下にあるリビア人。数はおよそ2万人とされる。シチリアで彼らを率いたハミルカル・バルカは、戦いのあいだ、未払いの給料と褒美をいずれ払うと約束していた。
ところが、カルタゴの金庫は空だった。講和の条件として、ローマに10年で3200タラントの賠償金を払うことになっていたからである。カルタゴの元老たちは傭兵をアフリカに渡すと、北アフリカの内陸の町シッカに集め、給料を減らしてほしいと持ちかけた。傭兵たちは全額を求め、話し合いはこじれた。彼らは武器を取ってカルタゴから20キロほどのチュニスに陣を張り、都を脅した。カルタゴは使者ギスコンを送って支払いを始めたが、反乱の指導者たちは和解を望まなかった。

指導者は二人いた。スペンディオスはイタリアのカンパニアから逃げた奴隷で、和解すれば主人に引き渡されると恐れていた。マトスはリビア人で、反乱の責任を問われることを恐れていた。二人はギスコンとその一行を捕え、リビアの町々に使いを送った。カルタゴは戦争の費用を、支配下のリビア人から重い税として取り立てていた。ポリュビオスによれば7万人のリビア人が反乱に加わり、女たちは装身具を差し出して戦費にしたという。カルタゴの近くの古い町ウティカとヒッポ・ディアリュトスも、やがて反乱の側に寝返った。カルタゴは、海に突き出した都の陸側を囲まれた。
最初に軍を率いたハンノは、勝ちかけては油断し、反乱軍を取り逃がした。代わってハミルカルが指揮を取った。彼はバグラダス川の河口で、風向きで浅くなる瀬を見抜いて川を渡り、象と騎兵で反乱軍を破った。ヌミディアの若い首長ナラウァスが2000の騎兵を連れて寝返ってくると、ハミルカルは娘を嫁にやると約束した。ハミルカルは捕虜を許し、自分の軍に入るか、どこへでも去るかを選ばせた。
この寛大さを、スペンディオスとマトスは恐れた。兵たちが離れていくからである。彼らはギスコンと捕虜のカルタゴ人およそ700人の手を切り落とし、手足を折って、生きたまま穴に投げ込んだ。死体の引き取りを求める使者も追い返した。ここから戦いは変わった。ハミルカルは捕えた反乱兵を象に踏ませるようになり、ポリュビオスはこの戦いを「休戦なき戦争」と呼んだ。和解も捕虜の交換も無い戦いだったからである。
決着の場は、「鋸」と呼ばれた山あいの地だった。ハミルカルは4万人を超える反乱軍をそこへ追い込み、出口を塞いだ。食料が尽きた反乱兵は捕虜を食べ、やがて奴隷を食べたとポリュビオスは書いている。スペンディオスら10人の指導者が交渉に出てくると、ハミルカルは条件を結んだうえで彼らを捕え、残る軍勢を討ち滅ぼした。スペンディオスはチュニスの城壁の前で磔にされた。マトスはこれに打って出て、ハミルカルと共に戦っていた別の将軍ハンニバル(のちの名将とは別人)を捕え、スペンディオスの十字架に代わりに掛けた。最後はマトスも敗れて捕えられ、カルタゴの街を引き回されて殺された。戦いはポリュビオスの数えで3年4か月、BC238年ごろに終わった。
カルタゴがこの内戦にかかりきりになっているあいだ、ローマは表向き手を出さなかった。捕虜を無償で返し、反乱側との取引を禁じ、ウティカが身を寄せようとしたときも断っている。ところが、サルデーニャの傭兵も反乱を起こしてカルタゴの役人を殺し、島をローマに差し出すと、ローマは方針を変えた。BC238年ごろ、ローマはこれを受け入れた。カルタゴが島を取り戻す軍を用意すると、ローマはそれを自分への戦争の準備だとみなして宣戦をちらつかせた。疲れ切ったカルタゴはサルデーニャを手放し、さらに1200タラントの賠償金を上乗せして払った。のちにポリュビオスは、これが第二次ポエニ戦争の最大の原因になったと書いた。
傭兵戦争で名を上げたハミルカルは、失った島の代わりを、海の向こうのイベリア半島に求めた。BC237年、彼はスペインへ渡った。出発の前、祭壇に生贄をささげながら、9歳の息子ハンニバル・バルカに、ローマに決して好意を持たないと誓わせたと伝えられる。これはハンニバル自身が晩年に語った話として、ポリュビオスが書き残したものである。

それから2000年あまりのち、1862年にギュスターヴ・フローベールが小説『サランボー』を出した。題はハミルカルの娘の名で、彼女は作者の創作である。マトスが彼女に恋をし、傭兵戦争の残酷な場面が、色彩の濃い文章で描かれる。フローベールは古代の文献を読み込み、チュニジアのカルタゴの跡まで旅して、数年をかけてこの小説を書いた。この戦いが一般に知られているのは、ほとんどこの小説のおかげである。