できごと

傭兵戦争

Mercenary War
BC241年
重要度 3
サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民セレウコス朝プトレマイオス朝サーミアンティゴノス朝ガリア諸部族カルタゴカルタゴメロエケルト系の人びとPlain-Pottery cultureBrushed Pottery cultureマケドニアカッパドキアカタバーンBell-shaped burials cultureアトロパテネローマナバテア王国ペルガモン王国リュシマコスの王国カッサンドロスの王国Milograd cultureハドラマウトアルメニアEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスサバア王国ギリシア諸ポリスDamotPomeranian cultureBC241年カルタゴ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC241年の版図を描いています(35勢力)。

概要

第一次ポエニ戦争の給料をもらえない傭兵2万人が、カルタゴを囲んだ。3年。ハミルカルが鎮めた。フロベールの『サランボー』の話。その間にローマがサルデーニャを取った。ハミルカルは息子に、ローマを憎む誓いをさせた。

場所

カルタゴ
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県

関わった人(1)

ハミルカル・バルカBC275年頃–BC228年冬 · 鎮圧

本文

BC241年、第一次ポエニ戦争が終わった。シチリアでローマと戦ってきたカルタゴの軍は、市民の兵ではなく、金で雇われた傭兵が中心だった。ギリシア人、ガリア人、イベリア人、リグリア人、バレアレス諸島の投石兵、そしてカルタゴの支配下にあるリビア人。数はおよそ2万人とされる。シチリアで彼らを率いたハミルカル・バルカは、戦いのあいだ、未払いの給料と褒美をいずれ払うと約束していた。

ところが、カルタゴの金庫は空だった。講和の条件として、ローマに10年で3200タラントの賠償金を払うことになっていたからである。カルタゴの元老たちは傭兵をアフリカに渡すと、北アフリカの内陸の町シッカに集め、給料を減らしてほしいと持ちかけた。傭兵たちは全額を求め、話し合いはこじれた。彼らは武器を取ってカルタゴから20キロほどのチュニスに陣を張り、都を脅した。カルタゴは使者ギスコンを送って支払いを始めたが、反乱の指導者たちは和解を望まなかった。

カルタゴ帝国の衰退(ターナー画)
カルタゴ帝国の衰退(ターナー画)Wikimedia Commons J. M. W. Turner · Public domain

指導者は二人いた。スペンディオスはイタリアのカンパニアから逃げた奴隷で、和解すれば主人に引き渡されると恐れていた。マトスはリビア人で、反乱の責任を問われることを恐れていた。二人はギスコンとその一行を捕え、リビアの町々に使いを送った。カルタゴは戦争の費用を、支配下のリビア人から重い税として取り立てていた。ポリュビオスによれば7万人のリビア人が反乱に加わり、女たちは装身具を差し出して戦費にしたという。カルタゴの近くの古い町ウティカとヒッポ・ディアリュトスも、やがて反乱の側に寝返った。カルタゴは、海に突き出した都の陸側を囲まれた。

最初に軍を率いたハンノは、勝ちかけては油断し、反乱軍を取り逃がした。代わってハミルカルが指揮を取った。彼はバグラダス川の河口で、風向きで浅くなる瀬を見抜いて川を渡り、象と騎兵で反乱軍を破った。ヌミディアの若い首長ナラウァスが2000の騎兵を連れて寝返ってくると、ハミルカルは娘を嫁にやると約束した。ハミルカルは捕虜を許し、自分の軍に入るか、どこへでも去るかを選ばせた。

ポリュビオスを描いたものと考えられている浮彫り石板。(紀元前2世紀頃)
ポリュビオスを描いたものと考えられている浮彫り石板。(紀元前2世紀頃)Wikimedia Commons en:German Archaeological Institute at Athens · Public domain

この寛大さを、スペンディオスとマトスは恐れた。兵たちが離れていくからである。彼らはギスコンと捕虜のカルタゴ人およそ700人の手を切り落とし、手足を折って、生きたまま穴に投げ込んだ。死体の引き取りを求める使者も追い返した。ここから戦いは変わった。ハミルカルは捕えた反乱兵を象に踏ませるようになり、ポリュビオスはこの戦いを「休戦なき戦争」と呼んだ。和解も捕虜の交換も無い戦いだったからである。

決着の場は、「鋸」と呼ばれた山あいの地だった。ハミルカルは4万人を超える反乱軍をそこへ追い込み、出口を塞いだ。食料が尽きた反乱兵は捕虜を食べ、やがて奴隷を食べたとポリュビオスは書いている。スペンディオスら10人の指導者が交渉に出てくると、ハミルカルは条件を結んだうえで彼らを捕え、残る軍勢を討ち滅ぼした。スペンディオスはチュニスの城壁の前で磔にされた。マトスはこれに打って出て、ハミルカルと共に戦っていた別の将軍ハンニバル(のちの名将とは別人)を捕え、スペンディオスの十字架に代わりに掛けた。最後はマトスも敗れて捕えられ、カルタゴの街を引き回されて殺された。戦いはポリュビオスの数えで3年4か月、BC238年ごろに終わった。

ウティカの戦い(英語版)における両軍の主な動きを示した図。
ウティカの戦い(英語版)における両軍の主な動きを示した図。Wikimedia Commons Maglorbd ( talk ) · CC0

カルタゴがこの内戦にかかりきりになっているあいだ、ローマは表向き手を出さなかった。捕虜を無償で返し、反乱側との取引を禁じ、ウティカが身を寄せようとしたときも断っている。ところが、サルデーニャの傭兵も反乱を起こしてカルタゴの役人を殺し、島をローマに差し出すと、ローマは方針を変えた。BC238年ごろ、ローマはこれを受け入れた。カルタゴが島を取り戻す軍を用意すると、ローマはそれを自分への戦争の準備だとみなして宣戦をちらつかせた。疲れ切ったカルタゴはサルデーニャを手放し、さらに1200タラントの賠償金を上乗せして払った。のちにポリュビオスは、これが第二次ポエニ戦争の最大の原因になったと書いた。

傭兵戦争で名を上げたハミルカルは、失った島の代わりを、海の向こうのイベリア半島に求めた。BC237年、彼はスペインへ渡った。出発の前、祭壇に生贄をささげながら、9歳の息子ハンニバル・バルカに、ローマに決して好意を持たないと誓わせたと伝えられる。これはハンニバル自身が晩年に語った話として、ポリュビオスが書き残したものである。

ハンノが傭兵たちに国庫が空であると告げる場面(『ローマ滑稽史』より)
ハンノが傭兵たちに国庫が空であると告げる場面(『ローマ滑稽史』より)Wikimedia Commons John Leech · Public domain

それから2000年あまりのち、1862年にギュスターヴ・フローベールが小説『サランボー』を出した。題はハミルカルの娘の名で、彼女は作者の創作である。マトスが彼女に恋をし、傭兵戦争の残酷な場面が、色彩の濃い文章で描かれる。フローベールは古代の文献を読み込み、チュニジアのカルタゴの跡まで旅して、数年をかけてこの小説を書いた。この戦いが一般に知られているのは、ほとんどこの小説のおかげである。

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