できごと

コリントス破壊

Sack of Corinth
BC146年
重要度 4
コリントス破壊に関わる図版:Tony robert-fleury, l'ultimo giorno di corinto, ante 1870
Tony robert-fleury, l'ultimo giorno di corinto, ante 1870 Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

概要

カルタゴ滅亡と同じ年にギリシアでも抵抗が潰え、ローマの地中海支配が確定した。

場所

コリントス
37.91°N 22.88°E · ギリシア・ペロポネソス地方

本文

紀元前2世紀、ローマは東地中海へ勢力を広げていった。マケドニア王国とは三度にわたって戦い、紀元前168年のピュドナの戦いで王国を滅ぼした。ギリシアの諸都市は、名目上は自由を認められたが、実際にはローマの顔色をうかがわなければならなくなった。

ギリシア南部のペロポネソス半島では、アカイア同盟が諸都市をまとめていた。ローマはこの同盟を警戒し、ピュドナの戦いの後、同盟の有力者1000人を人質としてイタリアへ連れ去った。その中に、のちに歴史家となるポリュビオスがいた。人質たちは十数年にわたって抑留され、生きて帰れたのは300人ほどだったと伝えられる。

ポリュビオスの石碑
ポリュビオスの石碑Wikimedia Commons Jona Lendering, Livius Onderwijs · Public domain

紀元前148年、マケドニアで王家の血を引くと称する男が反乱を起こし、ローマはこれを鎮めてマケドニアを属州とした。続いて、アカイア同盟とスパルタの間で争いが起き、ローマは同盟からスパルタやコリントスなどを切り離すよう求めた。同盟の中では、ローマへの反感が高まり、指導者たちは戦いを選んだ。

紀元前146年、ローマの執政官ルキウス・ムンミウスが大軍を率いてギリシアに入った。同盟軍はコリントス地峡の近くで敗れ、指導者は自ら命を絶った。同盟の中心だったコリントスは、ほとんど抵抗できないまま落ちた。

アカイア戦争開戦時のアカイア同盟の領域と、ムンミウス・メテッルスの侵攻路
アカイア戦争開戦時のアカイア同盟の領域と、ムンミウス・メテッルスの侵攻路Wikimedia Commons Augusto de Cartagena · Public domain

コリントスの運命は過酷だった。男たちの多くは殺され、女性と子どもは奴隷として売られた。町は略奪されたうえで焼き払われ、城壁は壊された。ローマがこの町を見せしめにしたのは、ローマの使節がコリントスで侮辱を受けたことへの報復だったとも言われる。

コリントスは、古くから交易と工芸で栄えた豊かな町で(ペリアンドロスのコリントス)、神殿や広場には、名だたる画家や彫刻家の作品があふれていた。それらは船に積まれてローマへ運ばれた。ポリュビオスは、ローマの兵士たちが、名画を床に広げて、その上でさいころ遊びをしているのを見たと書き残している。ムンミウスは、美術品を運ぶ船乗りたちに、もし失ったら新しいものを作って返させると言い渡したという逸話もある。それほど美術の値打ちに無頓着だった、という話である。

ペリアンドロスのコリントスに関わる図版:Periander Pio-Clementino Inv276
ペリアンドロスのコリントスWikimedia Commons Copy of Ktesilas · Public domain

それでも、運ばれた美術品は、ローマの神殿や公共の建物を飾り、ローマの人々の好みを大きく変えていった。ローマの上流の人々は、ギリシア語を学び、ギリシア人の教師を雇って子どもを教育させ、ギリシア風の別荘を建て、ギリシアの彫刻を買い求めるようになった。のちに詩人ホラティウスは、征服されたギリシアが荒々しい勝者を征服した、と書いている。

同じ年、北アフリカでは、小スキピオ(小スキピオ)の率いるローマ軍がカルタゴを落とし、町を徹底的に破壊していた(カルタゴ滅亡)。西の宿敵と東の抵抗が、紀元前146年の同じ年に潰えたことになる。この年をもって、ローマの地中海世界の支配は揺るぎないものになった。ポリュビオスは、ローマがわずか53年のうちに世界のほとんどを支配下に置いた理由を解き明かそうとして『歴史』を書き、その叙述をこの年で締めくくっている(ポリュビオス『歴史』)。

カルタゴ滅亡に関わる図版:Catapulta by Edward Poynter
カルタゴ滅亡Wikimedia Commons Edward Poynter · Public domain

コリントスの跡地は、およそ100年にわたって廃墟のまま残された。紀元前44年、ガイウス・ユリウス・カエサルがここにローマの植民市を建てることを決め、町はよみがえった。のちに使徒パウロがこの町で布教し、新約聖書の「コリント人への手紙」を書き送ったのは、この新しいコリントスに住む人々に対してである。

外に強い敵がいなくなると、ローマの関心は内側に向かった。征服で得た富と奴隷は、一部の有力者に集まり、土地を失った農民が都に流れ込んだ。紀元前133年、護民官ティベリウス・グラックスが土地の改革に乗り出して殺される(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)。ローマは、ここから1世紀にわたる内乱の時代に入っていく。

同じ時代のできごと

ミリンダ王の問いBC150年頃カルネアデスのローマ訪問BC155年呉楚七国の乱BC154年カルタゴ滅亡BC146年パルティアのセレウキア占領BC141年ポリュビオス『歴史』BC140年頃ハスモン朝の独立BC140年『淮南子』BC139年
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