ハンニバルの死
概要
亡命先のビテュニアでローマの追及を受け、服毒して死んだ。没年には諸説ある。
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · 当人本文
紀元前202年のザマの戦いで、ハンニバル・バルカはローマの大スキピオに敗れた。翌年カルタゴはローマと講和を結び(カルタゴの降伏)、艦隊のほとんどを引き渡し、50年かけて多額の賠償金を払うこと、ローマの許しなくアフリカの外で戦争をしないことを約束させられた。16年にわたってイタリアで戦い続けた将軍は、45歳ほどで祖国に戻った。
ハンニバルはそのまま政治の舞台に立った。紀元前196年、カルタゴの最高の役職であるスフェテスに選ばれると、終身の特権を持っていた有力者たちの審判の機関に手をつけ、構成員を毎年選び直すように改めた。さらに、国の財政を調べて、役人が公金を懐に入れていたことを暴き、それを正せば新たな税を課さずに賠償金を払えると示した。改革は市民に歓迎されたが、特権を奪われた有力者たちの恨みを買った。

政敵たちはローマに、ハンニバルが東方のセレウコス朝の王アンティオコス3世(大王)と通じてローマへの戦争を企てていると訴えた。ローマが調べのための使節を送ってくると、ハンニバルは身の危険を悟った。紀元前195年、彼は夜のうちに町を抜け出し、船でフェニキアのテュロスへ渡り、そこからアンティオコスの宮廷へ向かった。
アンティオコス3世は東方で大きく領土を広げ、「大王」と呼ばれた王で、ギリシアをめぐってローマと対立していた。ハンニバルは王に、イタリアで戦争を起こすべきだと説いたが、王の側近たちは亡命の将軍を信用せず、その助言はほとんど生かされなかった。紀元前190年、ハンニバルは王の艦隊の一部を率いたが、ロドスの艦隊に敗れた。同じ年の暮れから翌年にかけて、アンティオコスはマグネシアの戦いでローマ軍に大敗する。講和の条件の一つが、ハンニバルの引き渡しだった。

ハンニバルはまた逃げた。古代の伝記作家ネポスによれば、まずクレタ島に渡り、そこで財産を狙われると、壺に鉛を詰めて上に金をかぶせ、神殿に預けて人目を引きつけ、本当の財産は中が空洞の銅像に隠して持ち出したという。アルメニアの王のもとに身を寄せ、新しい都を建てる場所を助言したという話もある。どちらも後に語られた逸話で、どこまで本当かは分からない。
最後にたどり着いたのは、小アジアの北西にあるビテュニアの王プルシアス1世のもとだった。ビテュニアは隣のペルガモン王国と争っており、ハンニバルは王の軍事顧問として働いた。ペルガモンとの海戦では、毒蛇を詰めた壺を敵の船に投げ込ませて混乱させ、勝利を収めたとネポスは伝えている。

だが、ローマはハンニバルを見逃さなかった。ペルガモンはローマの同盟国である。ローマの使節フラミニヌスがビテュニアに来て、ハンニバルの引き渡しを求めた。プルシアスはローマの要求を拒めなかった。ハンニバルが住んでいたリビッサの館は兵に囲まれ、彼が用意していた抜け道の出口までふさがれていた。逃げられないと知ったハンニバルは、いつも身につけていた毒を飲んで命を絶った。指輪に毒を仕込んでいたとも伝えられる。
歴史家リウィウスは、ハンニバルが死の前にこう言ったと書いている。ローマ人の長い心配を終わらせてやろう、一人の老人の死を待つのは、彼らには長すぎるようだから、と。リウィウスはローマの側の歴史家だが、この場面では、逃げ続けた老将にどこか敬意を込めて描いている。

没年については古代の記録が一致せず、紀元前183年とする説と、紀元前182年や181年とする説がある。紀元前247年ごろの生まれとすると、60代前半から半ばで亡くなったことになる。リウィウスは、ハンニバルを破った大スキピオと、ギリシアのアカイア同盟の将軍フィロポイメンが同じ年に亡くなったと記し、三人の名将が相次いで世を去ったことに注目している。大スキピオもまた、ローマで政敵に追われ、晩年は田舎の別荘に引きこもって失意のうちに死んだ(大スキピオ)。
ハンニバルの死から40年近くのち、ローマはカルタゴそのものを滅ぼす(カルタゴ滅亡)。カルタゴの側から書かれたハンニバルの記録は残っておらず、私たちが知る彼の姿は、すべて敵であったギリシア人とローマ人の筆によっている。それでもハンニバルのアルプス越えやカンナエの戦いの将軍としての名は、二千年あまりを経た今も軍事の歴史で語られ続けている。