ファルサルスの戦い

概要
兵力で劣るカエサルがポンペイウスを破り、内戦の帰趨を決した。
場所
39.30°N 22.38°E · ギリシア・テッサリア地方
関わった人(2)
ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · カエサル側 · 総指揮ポンペイウスBC106年9月29日–BC48年9月28日 · ポンペイウス側 · 総指揮本文
紀元前49年の初め、ガイウス・ユリウス・カエサルは軍を率いてルビコン渡河を果たし、イタリアへ進んだ。かつての盟友ポンペイウスと元老院の多くの議員は、ローマを捨ててギリシアへ渡った。ポンペイウスは東方に長年の人脈を持ち、そこで兵と船と金を集めて、海からイタリアを締め上げるつもりだった。
カエサルはまず西へ向かい、スペインにいたポンペイウス派の軍を降伏させた。紀元前48年の初め、冬の荒れた海を越えてギリシアに上陸した。ポンペイウスは海を押さえていたため、カエサルの軍は補給に苦しんだ。アドリア海沿岸の港町デュラキウムで、カエサルはポンペイウスの陣営を長い包囲線で囲もうとしたが、逆に包囲線を破られて大きな損害を出した。このとき、敵に勝ち方を知る指揮官がいれば、今日は敵の勝ちだったとカエサルが語ったと、プルタルコスは伝えている。

カエサルは東のテッサリアへ退いた。ポンペイウスは、持久戦に持ち込んで敵を飢えさせる作戦を考えていた。しかし陣営にいた元老院議員たちは勝利を確信し、早く決着をつけるよう迫った。戦いが終わった後の役職を、すでに分け合う相談をしていた者もいたという。ポンペイウスはこの圧力に押されて、ファルサルスの平原で決戦に応じた。テッサリアの町ファルサルスの近く、エニペウス川に沿った平原である。紀元前48年8月9日のことである。
カエサル自身の記録によれば、カエサルの歩兵は約2万2000、騎兵は約1000だった。ポンペイウスの歩兵は約4万5000、騎兵は約7000で、騎兵の差は7倍にのぼった。ポンペイウスの騎兵を率いたのは、ガリア戦争でカエサルの副将を務めながら、内戦でポンペイウス側についたラビエヌスだった。

ポンペイウスの作戦は、優勢な騎兵でカエサル軍の右翼を回り込み、背後を突くことだった。カエサルはそれを読み、各軍団から選んだ兵で第四の戦列を作り、右翼の後ろに隠しておいた。騎兵が回り込んで来たとき、この部隊が飛び出して騎兵に向かった。カエサルは、槍を投げずに手に持ったまま、騎兵の顔をめがけて突き上げよと命じていたという。顔を傷つけられることを嫌った若い貴族の騎兵が崩れた、という話がプルタルコスにある。真偽はともかく、騎兵は逃げ出し、むき出しになったポンペイウス軍の左翼を、第四の戦列と予備の兵が突いた。
ポンペイウスは歩兵に、その場で動かずにカエサル軍の突撃を受け止めるよう命じていた。敵を走らせて疲れさせるためだったが、カエサルはこれを、兵の勢いを殺す誤りだったと批判している。左翼が崩れると、ポンペイウス軍は総崩れになった。

カエサルは自軍の死者を200人ほど、ポンペイウス軍の死者を1万5000人、捕虜を2万4000人と書いている。勝者自身の数字なので、割り引いて読む必要がある。
この戦いのおもな史料は、カエサル自身が書いた『内乱記』と、1世紀以上後のプルタルコスやアッピアノスの著作である。カエサルの記述は、ガリア戦記と同じく自分の判断の正しさを読者に印象づけるように書かれている。ポンペイウスは戦いの行方を見ると陣営に戻り、将軍の印の外套を脱ぎ捨てて逃げた。

カエサルは降伏した者の多くを許した。その中には、後に自分を暗殺することになるブルトゥスもいた。ポンペイウスの側についていたキケロも、許されてイタリアへ戻った。敵を許す寛容さは、粛清を繰り返した前の世代の独裁者スッラとの違いとして、カエサル自身が強く打ち出したものだった。
ポンペイウスは海を渡ってエジプトへ逃れた。かつて恩を売ったエジプト王家を頼ったのである。しかし少年王プトレマイオス13世の側近たちは、勝者カエサルの機嫌を取るほうを選んだ。9月、ポンペイウスは上陸しようとした小舟の上で、かつての部下だったローマ人の兵士に刺し殺された。数日後にエジプトに着いたカエサルは、ポンペイウスの首と印章の指輪を差し出され、涙を流したと伝えられる。
内戦はそれで終わらなかった。カエサルはエジプトで王家の争いに巻き込まれ、クレオパトラ7世を王位につけた。小アジアのゼラでは、わずか5日で敵を破り、「来た、見た、勝った」と書き送った。北アフリカのタプススの戦いではポンペイウス派の残党を破り、小カトーは降伏を拒んで自害した。紀元前45年、スペインのムンダの戦いでポンペイウスの息子たちを破り、内戦はようやく終わった。

ファルサルスは、この内戦の行方を決めた戦いだった。共和政の伝統を守る側を名乗った元老院の多くの議員がここで敗れ、ローマは一人の人間が権力を握る時代へ向かった。その翌年、終身の独裁官になったカエサルは、紀元前44年のカエサル暗殺で倒れる。