人物

レピドゥス

Marcus Aemilius Lepidus
BC89年頃 – BC13年(享年76・推定)
ローマ重要度 3

概要

カエサルの騎兵長官。三頭の三人目。アフリカをもらい、ナウロコスのあと兵をオクタウィアヌスに取られて、「最高神祇官」の称号だけ残されて、24年、田舎に住んだ。失脚したまま、寝床で死んだ。

所属

ローマ

関わったできごと(2)

第二回三頭政治と追放告示BC43年11月 · 三頭ナウロコスの海戦BC36年9月3日 · 退けられた

本文

マルクス・アエミリウス・レピドゥス。紀元前89年頃の生まれ。アエミリウス氏はローマ建国以来の名門貴族で、一族は何人もの執政官を出してきた。同名の父は紀元前78年の執政官だったが、独裁官スッラの死後にその体制を覆そうとして兵を挙げ、敗れて間もなく死んだ。兄のパウルスも紀元前50年に執政官になっている。レピドゥスは、家柄によって高い地位が約束された、典型的な貴族の子だった。

アントニウスとオクタウィアヌスに威圧されるレピドゥス(右)。シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の挿絵(H・C・セラス画)
アントニウスとオクタウィアヌスに威圧されるレピドゥス(右)。シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の挿絵(H・C・セラス画)Wikimedia Commons Henry Courtney Selous · Public domain

紀元前49年、ガイウス・ユリウス・カエサルがルビコン川を渡って内戦が始まると、レピドゥスはカエサルの側についた。法務官としてローマに残り、カエサルを独裁官に指名する法を通す役を引き受けた。その後ヒスパニアの総督を務め、紀元前46年にはカエサルとともに執政官となり、続いて独裁官の副官にあたる騎兵長官に任じられた。カエサルが戦地に出ているあいだ、ローマを預かる役である。

紀元前44年3月14日の晩、レピドゥスはカエサルを自宅の夕食に招いた。席でどんな死に方がよいかという話になり、カエサルは「思いがけない死だ」と答えたと伝わる。翌日、カエサルは元老院で暗殺された(カエサル暗殺)。レピドゥスはこのときローマのそばに兵を持つ唯一の高官で、ティベリス川の中洲に一個軍団を置いていた。彼は兵を市内に入れて広場を押さえ、執政官のマルクス・アントニウスと組んだ。カエサルの死で空いた最高神祇官の職は、アントニウスの後押しで、正規の手続きを経ずにレピドゥスのものになった。

カエサル暗殺に関わる図版:Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2)
カエサル暗殺Wikimedia Commons Vincenzo Camuccini · Public domain

その後、レピドゥスはガリア・ナルボネンシスとヒスパニアの総督として大軍を率いた。紀元前43年、ムティナで敗れたアントニウスが西へ逃れてくると、元老院はレピドゥスにアントニウスを討つよう期待したが、彼の兵はアントニウスの兵と自然に交わり、レピドゥスもこれに合流した。元老院は彼を国家の敵と宣言した。同じ年の秋、ボノニアの近くの川の中洲で、アントニウス、レピドゥス、そしてカエサルの養子オクタウィアヌスの三人が会談し、国家再建のための三人委員として5年間の全権を握ることを取り決めた。第二回三頭政治である(第二回三頭政治と追放告示)。

三人はまず、敵を名簿に載せて殺す追放告示を出した。キケロはこの名簿でアントニウスの求めにより殺された。レピドゥスの兄パウルスも名簿に入っていた。弟が兄を差し出したと人々は噂したが、パウルスは兵の見逃しで逃げ延びている。紀元前42年、レピドゥスは二度目の執政官としてローマに残り、アントニウスとオクタウィアヌスは東へ渡って、カエサルを殺したブルトゥスとカッシウスをフィリッピで破った(フィリッピの戦い)。

第二回三頭政治と追放告示に関わる図版:Antony with Octavian aureus
第二回三頭政治と追放告示Wikimedia Commons You may select the license of your choice. · Public domain

戦いのあと、勝った二人はレピドゥスを外して属州を分け合った。シチリアを押さえていたポンペイウスの子セクストゥス・ポンペイウスとひそかに通じているという疑いをかけられたためでもある。レピドゥスに残されたのは北アフリカだけだった。三人の中で、彼の立場は目に見えて下がっていった。

紀元前36年、オクタウィアヌスはセクストゥスを討つためにシチリアを攻め、レピドゥスもアフリカから大軍を率いて島の西に上陸した。ナウロコスの海戦でセクストゥスが敗れて逃げると(ナウロコスの海戦)、残されたセクストゥスの軍団はレピドゥスに降った。手元の兵が20個軍団を超えたレピドゥスは、シチリアは自分のものだと主張し、オクタウィアヌスに島から出て行くよう求めた。

オクタウィアヌスは少数の供を連れて、レピドゥスの陣営に乗り込んだ。カエサルの名を継ぐ若者に兵士たちは次々となびき、レピドゥスの兵は彼を見捨ててオクタウィアヌスの側に移った。レピドゥスは喪服をまとってオクタウィアヌスの前に出て、命乞いをした。命は助けられたが、三人委員の権限は取り上げられた。最高神祇官の職だけは、終身の宗教職であるため奪われなかった。

その後のレピドゥスは、ローマの南の海辺の町キルケイイで、監視されながら24年余りを過ごした。紀元前30年には、息子がアウグストゥスとなる前のオクタウィアヌスの暗殺を企てたとして殺され、妻のユニア(カエサル暗殺者ブルトゥスの妹)も関わりを問われた。オクタウィアヌスはときにレピドゥスをローマに呼び出し、元老院で最後に意見を求めるなどして辱めたと伝わる。

紀元前13年頃、レピドゥスは死んだ。アウグストゥスは、存命中は奪わずにおいた最高神祇官の職に、その死を受けて紀元前12年に就いた。宗教の長の地位も、こうしてアウグストゥスのもとに集まった。

シェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』で、アントニウスにレピドゥスのことを、使い走りにしか向かない取るに足らない男だ、荷を運ばせたら放してやるロバのようなものだ、と言わせている。三人のうちの三人目として、歴史は彼に厳しい。だが、アントニウスがエジプトで自ら命を絶ったのに対し、レピドゥスは権力を失ったあとも長く生きながらえ、70代の半ばで世を去った。カエサルの部下として権力の中心に近づき、それを保つ力も野心も足りなかった貴族は、内戦の時代を最後まで生き延びた。

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