ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺
概要
大土地所有を制限する農地法を通したが、任期中に元老院派に撲殺された。ローマ内政に暴力が持ち込まれた画期。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ティベリウス・グラックスBC163年頃–BC133年 · 護民官本文
紀元前133年、ローマの護民官ティベリウス・グラックスが、大土地所有を制限する農地法を通した。そして同じ年の夏、再選を目指した選挙の場で、元老院議員とその手下たちに撲殺された。王を追放して共和政を始めてから、市民どうしの争いが流血で決着したのはこれが初めてだったと、のちにプルタルコスは書いている。以後100年、ローマの政治は暴力と内戦の時代に入っていく。
背景には、勝ち続けたローマの、勝利の副作用があった。前3世紀から前2世紀にかけて、ローマはカルタゴを破り、ギリシアとスペインに兵を送り、地中海の覇者になった。前146年にはカルタゴもコリントスも滅ぼしている(カルタゴ滅亡)。戦ったのは、自分の土地を持つ市民の兵だった。ローマの軍団は、一定の財産を持つ市民だけが兵になれる仕組みで、その中心は小さな畑を耕す農民だった。

戦争が遠くで長く続くと、農民は何年も家に帰れない。そのあいだに畑は荒れ、借金がかさみ、土地は手放されていった。一方で、征服で富を得た元老院議員や富裕層は、土地を買い集め、戦争で連れてこられた大量の奴隷に耕させる大農場を営んだ。征服で国のものになった公有地も、本来は上限を超えて持ってはならないとされていたが、有力者たちが代々占め続け、私有地のように扱っていた。土地を失った市民は都市ローマに流れこんだ。土地を持たない者は兵になる資格も失う。勝ち続けることが、兵の供給を細らせるという逆説である。前135年からは、シチリアで奴隷の大反乱も起きていた。
ティベリウスは、ローマで指折りの名門に生まれた。父は同じ名を持つ執政官で、母コルネリアは、ハンニバルを破った大スキピオの娘である。弟のガイウスが後に書いたところでは、兄はスペインの戦地へ向かう途中にエトルリアを通り、畑を耕しているのが市民ではなく異国から来た奴隷ばかりなのを見て、改革を決意したという。スペインでは、包囲された味方の軍2万人を救うために敵と和約を結んだが、元老院はその和約を恥として破棄した。これが元老院への不信を深めたとも言われる。

前133年、護民官になったティベリウスは農地法を提案した。公有地を占有できるのは一人500ユゲラ(およそ125ヘクタール)までとし、息子がいればその分を加えて最大で倍まで認める。それを超える分は国が取り戻し、土地を持たない市民に小さな区画として分け与える。分け与えた土地は売ってはならない。実行のために三人の委員を置く。違法な占有を正すという建前だったが、その公有地を占めていたのは、ほかならぬ元老院議員たちだった。
演説で、ティベリウスはこう訴えたと伝えられる。イタリアの野の獣でさえ巣穴を持っているのに、イタリアのために戦い死ぬ者たちには、空気と光のほかに何もない、と。世界の主人と呼ばれる兵たちが、自分の土地を一片も持っていないことを責める演説だった。

元老院は、別の護民官マルクス・オクタウィウスを動かして、法案に拒否権を使わせた。護民官の拒否権は、もともと平民を守るために作られた(護民官の設置)。ティベリウスは、民の利益に反する護民官はもはや護民官ではないとして、平民の集会に諮り、オクタウィウスを罷免させた。任期中の護民官を解任するのは前例が無かった。法案はそのあと可決された。
元老院は、土地を分ける委員会にほとんど予算を与えなかった。そこへ、小アジアのペルガモンの王が死に、王国と財産をローマの民に遺すという遺言が届く(ペルガモン王国)。ティベリウスは、その財産を新しく土地を受け取る市民の支度金に回そうと提案した。外交と国の財政は、長く元老院の領分だった。反対派は、ティベリウスがペルガモンの王から王冠を受け取ったと言いふらし、王になろうとしていると非難した。王という言葉は、ローマでは最も忌まわしい非難だった。
任期は1年である。任期が終われば、ティベリウスは訴えられる。法を守るため、そして身を守るためにも、彼は翌年の護民官に続けて立候補した。これも慣例に反していた。選挙の日、カピトリウムの丘は支持者と反対派でごった返した。元老院では、最高神官のスキピオ・ナシカが執政官に実力で止めるよう迫ったが、執政官は裁判なしに市民を殺すことを拒んだ。ナシカは「国を救いたい者は私に続け」と叫び、議員たちとその手下を率いて丘へ向かった。彼らは長椅子を壊した脚や棍棒を手に群衆を打ち、ティベリウスと、300人あまりの支持者を殴り殺した。遺体はティベリス川へ投げ込まれた。
改革そのものは、すぐには消えなかった。三人委員会は活動を続け、実際に土地の分配が行われたことは、イタリア各地で見つかった委員会の境界石から分かっている。10年後、弟のガイウス・グラックスが護民官となって兄の事業を引き継ぎ、さらに大きな改革に乗り出すが、前121年に元老院の非常決議のもとで殺される(ガイウス・グラックスの改革と死)。こんどの死者は3000人に及んだと伝えられる。
兄弟が死んでも、土地を失った市民の問題は残った。前107年、執政官マリウスは財産の無い市民を志願兵として募った(マリウスの軍制改革)。兵は国ではなく、給料と退役後の土地をくれる将軍に忠誠を誓うようになる。元老院の側も、民衆の支持で動く政治家の側も、問題を武力で片づけることを覚えた。スッラの独裁、カエサルの内戦を経て、共和政は帝政に取って代わられる。

ティベリウスの評価は、古代から割れていた。ローマの貴族の側に立つキケロは、国を乱した者として扱った。一方で、彼は貧しい市民のために命を落とした改革者として、近代の革命家たちにも思い起こされた。私たちが彼について知ることの多くは、200年以上後のプルタルコスとアッピアノスの書いたものに頼っていて、演説の言葉がどこまで本人のものかも分からない。確かなのは、ローマの政治が、議論ではなく棍棒で決着する道をこの日に開いたことである。