カティリナの陰謀

概要
選挙に負けた貴族が、借金に困った者を集めてクーデターを企てた。執政官キケロが元老院で「いつまで我々の忍耐を試すのか」と演説し、共犯者を裁判なしで処刑した。その処刑が、のちに自分を追放させる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
キケロBC106年1月3日–BC43年12月7日 · 執政官本文
ルキウス・セルギウス・カティリナは、ローマで最も古い貴族の家の一つに生まれた。ただ、家はとうに勢いを失っていた。若いころはスッラの独裁の下で、追放された人々の殺害に手を貸したと伝えられる。政治の階段を上り、法務官を務めたあと、執政官を目指した。執政官は毎年二人だけが選ばれる共和政の最高の官職で、古い家の者にとっては家名を取り戻す道だった。
しかし、カティリナは届かなかった。一度は属州での不正を訴えられて立候補できず、BC64年の選挙では、騎士身分の出のキケロに敗れた。翌BC63年の選挙にも敗れる。選挙には莫大な金がかかり、カティリナは大きな借金を抱えていた。彼は借金の帳消しを掲げて、同じように借金に苦しむ若い貴族、土地を手放したスッラの退役兵、貧しい農民を集めた。合法の道が閉ざされると、武力で政権を取る計画に変わっていく。北のエトルリアでは、元百人隊長のマンリウスが兵を集めはじめた。

BC63年の執政官は、そのキケロだった。キケロは家に先祖の執政官を持たない「新人」で、貴族たちからは成り上がりと見られていた。彼は、陰謀に加わった男の愛人だったフルウィアという女性から、計画の中身を伝えられていたとされる。10月、元老院は執政官に国家を守るためのあらゆる手段を委ねる決議を出した。11月の初め、キケロの暗殺が企てられたが、事前に知らされていたキケロは家の門を閉じて難を逃れた。
11月8日、キケロはユピテル神殿に元老院を集め、出席していたカティリナを前に演説した。「カティリナよ、いつまで我々の忍耐を悪用するつもりか」という書き出しは、ラテン語の弁論の中で最も有名な一節になる。カティリナの隣の席から議員たちが離れていったとも伝えられる。カティリナはその夜ローマを出て、エトルリアのマンリウスの軍に加わった。

ローマに残った仲間は、前の執政官だったレントゥルスを中心に、市内に火を放つ計画を立てた。さらに、ローマに来ていたガリアのアッロブロゲス族の使節を味方に引き込もうとした。ところが使節はこれをローマ側に知らせ、キケロの指示で、仲間の署名入りの手紙を持ったまま、12月3日の夜、ムルウィウス橋で捕らえられた。翌日、キケロは元老院に手紙を示し、5人が拘束された。
12月5日、元老院は5人の処分を論じた。次の年の執政官に選ばれていたシラヌスは死刑を求めた。これに対し、法務官に選ばれていたガイウス・ユリウス・カエサルは、裁判なしにローマ市民を殺すのは法に背くとして、財産を没収して各地の町で終身拘禁するよう説いた。議場はカエサルの意見に傾いたが、若い小カトーが、国家の敵に情けをかけるなと激しく反論し、流れは死刑に戻った。キケロはその日のうちに5人を地下の牢に送り、絞首させた。出てきたキケロは、広場の群衆に「彼らは生きた」とだけ告げたと伝えられる。死んだ、という言葉を避けた言い回しである。

カティリナの軍は、追ってきた正規軍にはさまれ、BC62年1月、北イタリアのピストリアの近くで戦いを強いられた。歴史家サッルスティウスは、カティリナの遺体が自分の兵の列よりはるか前、敵の兵の死体の間で、まだ息のあるまま見つかったと書いている。サッルスティウスの『カティリナ戦記』は、この事件を、富と野心で堕落したローマの姿として描いた。ただし著者はカエサルに近い立場の人で、カエサルを好意的に描いていることは割り引いて読む必要がある。
キケロは「祖国の父」と呼ばれ、生涯この年の働きを誇った。しかし、裁判を経ずに市民を処刑したことは、のちに彼を追い詰める。BC58年、護民官のクロディウスが、裁判なしにローマ市民を死なせた者を追放する法を通し、キケロはローマを去ることになった。翌年には呼び戻されたが、政治の主導権は第一回三頭政治を組んだカエサルたちの手に移っていた。カエサルやクラッススがカティリナと通じていたのではないかという噂は当時からあったが、確かな証拠は無い。