できごと

スッラの独裁

Dictatorship of Sulla
BC82年
重要度 4
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民パルティアスキタイサーミローマサルマタイプトレマイオス朝小国群ガリア諸部族メロエケルト系の人びとヌミディアPlain-Pottery cultureセレウコス朝ダキア人マウレタニアBrushed Pottery cultureカタバーンBell-shaped burials cultureMaanナバテア王国Milograd cultureハドラマウトEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureBC82年ローマ
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概要

ローマに軍を入れて独裁官となり、政敵を名簿にして処断した。内乱の前例になる。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

スッラBC138年–BC78年 · 当人

本文

紀元前1世紀の初め、ローマの共和政はきしんでいた。地中海を制した富は一部の有力者に集まり、土地を失った市民が増えていた。マリウスの軍制改革で、貧しい市民も志願して兵になれるようになると、兵は国よりも、給料と退役後の土地をくれる将軍に忠誠を向けるようになった。軍が、将軍個人の力になり始めていた。

スッラはその時代の将軍だった。名門の出だが家は落ちぶれていて、若いころは役者や芸人と遊び歩いたと伝えられる。北アフリカの戦争でマリウスの部下として頭角を現し、イタリアの同盟都市がローマに背いた同盟市戦争でも功を立てた。紀元前88年、執政官になったスッラは、東方のポントス王ミトリダテス6世と戦う指揮権を得た(ミトリダテス戦争)。

ミトリダテス戦争に関わる図版:PonticKingdom
ミトリダテス戦争Wikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ) · Public domain

ところがローマの民会は、その指揮権をスッラから取り上げ、老いたマリウスに与える法を通した。スッラは自分の軍団に訴え、兵を率いてローマへ進んだ。ローマ市の中に軍を入れて政敵を追い払ったのは、彼が初めてだった。将校たちの多くはこの進軍を拒んだが、兵はついてきた。マリウスはアフリカへ逃れた。

スッラが東方で戦っているあいだに、ローマではマリウスとその仲間が戻り、スッラの支持者を殺した。紀元前83年、ミトリダテスと講和したスッラはイタリアに上陸し、内乱になった。若いポンペイウスやクラッススが私兵を集めてスッラについた。紀元前82年11月、ローマの城門の外、コッリーナ門の戦いでスッラは敵を破った。ローマに軍を入れたのは、これで二度目である。

スッラの胸像(アウグストゥス時代の模刻、ミュンヘン・グリプトテーク)
スッラの胸像(アウグストゥス時代の模刻、ミュンヘン・グリプトテーク)Wikimedia Commons Public domain

その年の終わり、スッラは独裁官になった。独裁官は、国の危機に6か月だけ置かれる非常の職で、120年ほど使われていなかった。スッラはこれを「法を定め国家を立て直すため」の職として、期限を区切らずに引き受けた。

まず行ったのが、処罰者の名簿の公示である。殺すべき者の名を書いた板をフォルムに掲げた。名が載った者は誰が殺してもよく、殺した者には賞金が出た。財産は没収されて競売にかけられ、子や孫は公職に就けなくなった。かくまった者も罰せられた。殺された者は、元老院議員と騎士身分だけで数千人にのぼったとされる。財産目当てに名を書き足された者もいた。没収された財産を安く買って財をなした者の一人が、クラッススである。

捕らえられるユグルタ王
捕らえられるユグルタ王Wikimedia Commons Joachin Ibarra, scanned by Shlavozensky · Public domain

そのうえでスッラが行った改革は、元老院の力を取り戻すことだった。元老院の定員を600人ほどに増やし、自分の支持者で埋めた。民衆の代弁者として法を通してきた護民官からは、法案を出す力を奪い、護民官を務めた者はそれより上の職に就けないようにした。公職に就く順番と年齢の決まりも固め、裁判の陪審も元老院議員に戻した。民衆の側から共和政をゆさぶる道を、ふさごうとしたのである。

そして紀元前81年ごろ、スッラは独裁官を辞めた。翌年には執政官を一度務め、その後は政治から身を引いてナポリ湾の別荘に退き、紀元前78年に死んだ。墓には、友には恩で、敵には仇で、必ず報いた、という意味の言葉が刻まれたと伝えられる。

小アシアの勢力図
小アシアの勢力図Wikimedia Commons William Robert Shepherd · Public domain

スッラの改革は長くはもたなかった。10年もたたない紀元前70年、執政官となったポンペイウスとクラッススが、護民官の力を元に戻した。残ったのは、制度ではなく手順のほうだった。軍を率いてローマに入れば、政敵を消し、国の形を変えられる。それを最初に示したのがスッラだった。

この時代を若者として見ていたのが、ガイウス・ユリウス・カエサルである。マリウスの縁者だったカエサルは、スッラに妻と離縁するよう命じられて拒み、身を隠した。周りのとりなしで許されたとき、スッラはあの若者の中には多くのマリウスがいる、と言ったと伝えられる。後年カエサルは、スッラが独裁官を辞めたのは政治の初歩を知らなかったからだ、と語ったという。30年あまり後、カエサルもまた軍を率いてローマへ向かい、独裁官になる。ただし、彼は辞めなかった(カエサル暗殺)。

出典(1)

塩野七生 『ローマ人の物語』III 勝者の混迷

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