スッラの独裁
概要
ローマに軍を入れて独裁官となり、政敵を名簿にして処断した。内乱の前例になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
スッラBC138年–BC78年 · 当人本文
紀元前1世紀の初め、ローマの共和政はきしんでいた。地中海を制した富は一部の有力者に集まり、土地を失った市民が増えていた。マリウスの軍制改革で、貧しい市民も志願して兵になれるようになると、兵は国よりも、給料と退役後の土地をくれる将軍に忠誠を向けるようになった。軍が、将軍個人の力になり始めていた。
スッラはその時代の将軍だった。名門の出だが家は落ちぶれていて、若いころは役者や芸人と遊び歩いたと伝えられる。北アフリカの戦争でマリウスの部下として頭角を現し、イタリアの同盟都市がローマに背いた同盟市戦争でも功を立てた。紀元前88年、執政官になったスッラは、東方のポントス王ミトリダテス6世と戦う指揮権を得た(ミトリダテス戦争)。

ところがローマの民会は、その指揮権をスッラから取り上げ、老いたマリウスに与える法を通した。スッラは自分の軍団に訴え、兵を率いてローマへ進んだ。ローマ市の中に軍を入れて政敵を追い払ったのは、彼が初めてだった。将校たちの多くはこの進軍を拒んだが、兵はついてきた。マリウスはアフリカへ逃れた。
スッラが東方で戦っているあいだに、ローマではマリウスとその仲間が戻り、スッラの支持者を殺した。紀元前83年、ミトリダテスと講和したスッラはイタリアに上陸し、内乱になった。若いポンペイウスやクラッススが私兵を集めてスッラについた。紀元前82年11月、ローマの城門の外、コッリーナ門の戦いでスッラは敵を破った。ローマに軍を入れたのは、これで二度目である。

その年の終わり、スッラは独裁官になった。独裁官は、国の危機に6か月だけ置かれる非常の職で、120年ほど使われていなかった。スッラはこれを「法を定め国家を立て直すため」の職として、期限を区切らずに引き受けた。
まず行ったのが、処罰者の名簿の公示である。殺すべき者の名を書いた板をフォルムに掲げた。名が載った者は誰が殺してもよく、殺した者には賞金が出た。財産は没収されて競売にかけられ、子や孫は公職に就けなくなった。かくまった者も罰せられた。殺された者は、元老院議員と騎士身分だけで数千人にのぼったとされる。財産目当てに名を書き足された者もいた。没収された財産を安く買って財をなした者の一人が、クラッススである。

そのうえでスッラが行った改革は、元老院の力を取り戻すことだった。元老院の定員を600人ほどに増やし、自分の支持者で埋めた。民衆の代弁者として法を通してきた護民官からは、法案を出す力を奪い、護民官を務めた者はそれより上の職に就けないようにした。公職に就く順番と年齢の決まりも固め、裁判の陪審も元老院議員に戻した。民衆の側から共和政をゆさぶる道を、ふさごうとしたのである。
そして紀元前81年ごろ、スッラは独裁官を辞めた。翌年には執政官を一度務め、その後は政治から身を引いてナポリ湾の別荘に退き、紀元前78年に死んだ。墓には、友には恩で、敵には仇で、必ず報いた、という意味の言葉が刻まれたと伝えられる。

スッラの改革は長くはもたなかった。10年もたたない紀元前70年、執政官となったポンペイウスとクラッススが、護民官の力を元に戻した。残ったのは、制度ではなく手順のほうだった。軍を率いてローマに入れば、政敵を消し、国の形を変えられる。それを最初に示したのがスッラだった。
この時代を若者として見ていたのが、ガイウス・ユリウス・カエサルである。マリウスの縁者だったカエサルは、スッラに妻と離縁するよう命じられて拒み、身を隠した。周りのとりなしで許されたとき、スッラはあの若者の中には多くのマリウスがいる、と言ったと伝えられる。後年カエサルは、スッラが独裁官を辞めたのは政治の初歩を知らなかったからだ、と語ったという。30年あまり後、カエサルもまた軍を率いてローマへ向かい、独裁官になる。ただし、彼は辞めなかった(カエサル暗殺)。