セクストゥス・ポンペイウス
概要
ポンペイウスの次男。父はエジプトで、兄はムンダで殺された。追放された者と逃亡奴隷でシチリアを取り、船でローマの穀物を止めた。「ネプトゥヌスの子」。ミセヌムで三頭と宴をし、「縄を切れば彼らは私のもの」と言われて「それは私の名誉に」。アグリッパに負け、小アジアで殺された。
所属
ローマ関わったできごと(1)
ナウロコスの海戦BC36年9月3日 · 負けた本文
紀元前67年頃、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ポンペイウス)の次男として生まれた。母は三番目の妻ムキア。父はこの年、地中海の海賊を一掃する大権を与えられ、わずか3か月で海を平らげて名声の絶頂にあった。のちに息子がその海を舞台に戦うことになるのは、皮肉な巡り合わせである。
紀元前49年、父がガイウス・ユリウス・カエサルと内戦を始めた。翌年、ファルサロスで敗れた父はエジプトへ逃れ、ナイル・デルタのペルシオンの浜で、小舟に乗り移ったところをエジプト王の側近の手で殺された。まだ若いセクストゥスは、継母コルネリアとともに沖の船から、その光景を見ていたと伝えられる。
そこから彼の逃亡と抵抗の日々が始まった。北アフリカに渡ってカエサルに抗う勢力に加わり、紀元前46年にタプソスでその軍が敗れると、兄グナエウスとともにスペインへ移った。紀元前45年、ムンダの戦いで兄の軍はカエサルに敗れ、兄は逃げる途中で捕らえられて殺された。セクストゥスはスペインの山地に逃れ、土地の部族や父の旧臣を集めてゲリラ戦を続けた。
紀元前44年3月、カエサルが暗殺されると、状況は一変した。カエサル派のレピドゥスとの交渉で、セクストゥスはスペインから兵を引く代わりに父の財産の返還を約束された。翌紀元前43年、元老院は彼を艦隊と沿岸の指揮官に任じた。だが同じ年、アントニウス、レピドゥス、オクタウィアヌスの三人が手を結んで第二回三頭政治が成立し、セクストゥスはカエサル暗殺の一味として追放者の名簿に加えられた(第二回三頭政治と追放告示)。

セクストゥスは船団を率いてシチリアを奪った。そしてイタリアの海岸に船を送り、追放されて逃げてくる者たちを拾い上げた。名簿に載った元老院議員や騎士、主人のもとを逃げてきた奴隷たちが、続々とシチリアに集まった。ローマで殺されそうになった人々にとって、彼の島は最後の避難所になった。紀元前42年、三頭のうちアントニウスとオクタウィアヌスがフィリッピでカエサルの暗殺者たちを破ると(フィリッピの戦い)、生き延びた共和派の者たちもまた彼のもとに流れ込んだ。
シチリア、さらにサルデーニャとコルシカは、ローマの穀物庫だった。セクストゥスの艦隊は海を押さえ、アフリカなどからローマへ向かう穀物の船も止めた。ローマの町では穀物の値が跳ね上がり、紀元前40年頃には飢えた市民がオクタウィアヌスに石を投げる騒ぎまで起きた。セクストゥスは海での勝利を重ねると、自分を海の神ネプトゥヌスの子と称し、青い外套をまとい、ネプトゥヌスを刻んだ貨幣を発行した。
紀元前39年、三頭はセクストゥスと和解せざるをえなくなり、ナポリ湾のミセヌム岬で会談した。セクストゥスはシチリア、サルデーニャ、コルシカに加えてペロポネソス半島を治めることを認められ、将来の執政官の座も約束された。追放された人々の多くは、この和約でローマに帰ることができた。和約を祝ってセクストゥスの旗艦で宴が開かれたとき、腹心の解放奴隷メナスがそっと耳打ちした。錨の綱を切って沖へ出てしまえば、三人ともあなたのものです。セクストゥスは少し考えて答えたという。それは黙ってやるべきだった。私が知った以上、約束を破ることはできない。プルタルコスが伝える有名な逸話である。
和約は長くもたなかった。ペロポネソスは約束どおり渡されず、紀元前38年、メナスがサルデーニャを手土産にオクタウィアヌスの側に寝返った。オクタウィアヌスはシチリアを攻めたが、セクストゥスの艦隊と嵐に二度にわたって敗れた。そこでオクタウィアヌスは、盟友アグリッパに新しい艦隊を一から作らせた。ナポリの近くに港を掘り、漕ぎ手を何万人も鍛え、敵船を引き寄せる新しい鉤の装置まで用意した。
紀元前36年9月、シチリアの北東の沖、ナウロコスで両艦隊はぶつかった(ナウロコスの海戦)。アグリッパの艦隊はセクストゥスの船の大半を沈めるか奪い、セクストゥスはわずか17隻ほどで東へ逃れた。シチリアに残された彼の陸軍はレピドゥスに降り、それがレピドゥス自身の失脚のきっかけになった。
東へ逃れたセクストゥスは、小アジアで兵を集め直し、マルクス・アントニウスとパルティアの双方と交渉して生き残りを図った。だがアントニウスの将軍たちに追い詰められて捕らえられ、紀元前35年、ミレトスで処刑された。アントニウスの命令だったのか、部下が独断で手を下したのかは、史料によって食い違う。手を下した将軍ティティウスは、のちにローマのポンペイウス劇場で見世物を催したとき、観客から激しいやじを浴びせられ、退場させられたという。ローマの民衆は、ポンペイウスの名をまだ覚えていた。
アウグストゥスの時代の歴史は、セクストゥスを海賊として描いた。穀物を止め、奴隷を集め、ローマを飢えさせた男である。一方で、彼のシチリアは、三頭の殺戮から逃れた人々の命を救った避難所でもあった。共和政を守ろうとする最後の抵抗者と見るか、父の名を頼りに海に巣くった無法者と見るか。どちらにしても、彼を倒したことで、オクタウィアヌスは地中海の西半分を手中にし、のちのアウグストゥスへの道を固めた。