ムンダの戦い

概要
ポンペイウスの息子たちがスペインで最後に立った。カエサルは「いつも勝利のために戦ったが、今日は命のために戦った」。兵の前に出て、盾を取って、自分で戦った。内戦が終わった。翌年3月、元老院で刺される。
場所
37.60°N -4.60°E · スペイン・アンダルシア(場所は不明)
関わった人(1)
ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · 自分で戦った本文
紀元前49年にルビコン渡河で始まった内戦は、ファルサルスの戦いでポンペイウス本人を破り、紀元前46年4月のタプススの戦いでアフリカの共和派を片づけて、ほぼ終わったかに見えた。同じ年、ガイウス・ユリウス・カエサルはローマで4度の凱旋式を挙げた。ガリア、エジプト、ポントス、アフリカに対する勝利の名目で、ガリアの指導者ウェルキンゲトリクスは行列で引き回されたあと処刑され、クレオパトラの妹アルシノエは引き回されたが命は許され、ヌミディア王ユバの幼い息子はローマで育てられることになった。
この年、カエサルは暦も改めた。季節と大きくずれていた暦を合わせるため、紀元前46年は445日の長い一年となり、翌年からユリウス暦の施行が始まった。

だが、内戦の火はスペインで再び燃えていた。ポンペイウスの二人の息子、兄グナエウスと弟セクストゥス・ポンペイウスが、カエサル派の総督に不満を持つ南スペインの住民と兵を集め、そこにタプススから逃れたラビエヌスやアッティウス・ウァルスが合流した。ラビエヌスは、かつてガリア戦争でカエサルの右腕だった副将で、内戦が始まるとポンペイウスの側に移った人物である。共和派はバエティカ(いまのアンダルシア)一帯を押さえ、13個軍団を数えたという。
紀元前46年の末、カエサルはローマを発ち、陸路でスペインへ急いだ。わずか27日ほどで着いたとされ、その道中に『旅』という詩を書いたと伝えられるが、作品は残っていない。冬のあいだ、カエサルは敵の拠点を一つずつ囲んで落とし、紀元前45年2月にはアテグアの町を降伏させた。グナエウス・ポンペイウスは決戦を避けて退いたが、やがてムンダの町の近くの丘に陣を構えた。ムンダが今のどこにあたるかははっきりせず、オスナの近くとする説などがある。
紀元前45年3月17日、両軍はぶつかった。共和派は丘の上に陣取り、カエサル軍は平地から斜面を攻め上がる不利な形だった。戦いは長引き、兵どうしが一歩も引かない白兵戦になった。古代の歴史家たちは、このときカエサルの軍が押されて崩れかけたと書いている。プルタルコスによれば、カエサルは戦いのあと、これまでは勝利のために戦ってきたが、今日初めて命のために戦った、と語ったという。
崩れかけた戦列を立て直したのはカエサル自身だった。伝えによれば、彼は馬を降りて兵の前に出て、盾を一つ手に取り、敵の前へ進み出た。兵たちに、自分をこんな若造どもに引き渡して恥ずかしくないのか、と叫んだとも、これが自分とお前たちの最後の日になるのか、と言ったとも伝えられる。最も信頼していた第十軍団が踏みとどまり、右翼で敵を押し返し始めた。
勝敗を分けたのは、思わぬ動きだった。カエサルの味方についたマウレタニア王ボグドの騎兵が、共和派の陣営に回りこんで襲いかかった。ラビエヌスはこれを防ぐため、数個大隊を率いて陣営へ向かった。ところが、それを見た共和派の兵は、ラビエヌスが逃げ出したと思いこんだ。戦列は一気に崩れた。
『ヒスパニア戦記』は、共和派の死者を約3万人、カエサル側の死者を約1000人と記している。ラビエヌスはこの戦いで死んだ。ガリアでともに戦った副将が、内戦の最後の戦いで敵として倒れたことになる。カエサルは彼を葬らせたと伝えられる。生き残った兵はムンダの町に逃げこみ、カエサル軍は死体と武器を積み上げて町を囲む土塁とし、首を剣先に刺して町に向けて並べたと、同じ戦記が書いている。
グナエウス・ポンペイウスは負傷して逃れたが、まもなく見つかって殺され、その首はヒスパリス(いまのセビリャ)でさらされた。弟のセクストゥスは逃げのび、のちに艦隊を集めてシチリアを拠点に海から地中海を脅かし、紀元前36年のナウロコスの海戦で敗れるまで抵抗を続けた。
ムンダで、ルビコン渡河から4年あまり続いた内戦は終わった。紀元前45年10月、カエサルはローマでスペインに対する凱旋式を挙げた。だがそれは、外国の敵ではなく、ローマ人を破ったことを祝う凱旋式であり、プルタルコスは、ローマの人々がこれを快く思わなかったと書いている。翌年2月、カエサルは終身の独裁官となった。ルペルカリア祭でアントニウスが王冠を差し出し、カエサルがそれを退ける場面もあった。紀元前44年3月15日、ムンダからちょうど1年ほどで、彼は元老院で刺された(カエサル暗殺)。

戦いの経過を伝える主な史料『ヒスパニア戦記』は、カエサルの著作に付けて伝わったが、書き手は分かっていない。文章はぎこちなく、ラテン語として拙いことで知られ、現場にいた将校か兵士が書いたと考えられている。洗練されていないぶん、命がけの斜面の戦いの手ざわりがそのまま残った記録である。