できごと

カルラエの戦い

Battle of Carrhae
BC53年
重要度 4
カルラエの戦いに関わる図版:Battle of Carrhae (Caesarː A History Of The Art Of War Among The Romans Down To The End, vol. II, 1892)
Battle of Carrhae (Caesarː A History Of The Art Of War Among The Romans Down To The End, vol. II, 1892) Wikimedia Commons Theodore Ayrault Dodge · Public domain

概要

クラッススがパルティアの騎射に敗れて戦死した。ローマの東の限界が定まる。

場所

カルラエ
36.86°N 39.03°E · トルコ・シャンルウルファ県ハッラーン

関わった人(1)

クラッススBC115年頃–BC53年 · ローマ側 · 総指揮

本文

紀元前60年、ローマの政界の三人の実力者、ポンペイウス、カエサル、クラッススが手を結んだ(第一回三頭政治)。三人のうちクラッススは、ローマ一の富豪だった。内乱の時代に、処罰された人々の財産を安く買い集め、火事で焼けかけた家を二束三文で買い取ってから自分の消防隊に火を消させる、といったやり方で財を増やしたとプルタルコスは書く。軍団一つを自分の財産で養えないような者は富者とは呼べない、と語ったという。

だが、軍人としての名声は、ポンペイウスやカエサルに遠く及ばなかった。紀元前71年にはスパルタクスの率いる奴隷の反乱を鎮圧したが、その最後に残党を掃討したポンペイウスに手柄の多くを持っていかれた。ポンペイウスは東方を平定し、カエサルはガリアで勝利を重ねていた(ガリア戦争)。紀元前55年、二度目の執政官を務めたクラッススは、任期の後にシリアの総督となり、東の大国パルティア(パルティア)への遠征を企てた。このとき60歳を超えていた。

ガリア戦争に関わる図版:Lionel Royer - Vercingetorix Throwing down His Weapons at the feet of Julius Caesar
ガリア戦争Wikimedia Commons Lionel Royer · Public domain

パルティアと戦う正当な理由ははっきりしなかった。ローマを出るとき、護民官の一人が門で呪いの言葉を浴びせたと伝えられる。紀元前54年、クラッススはユーフラテス川を越えて北メソポタミアの町をいくつか取ったが、その年は冬営のためにシリアへ戻った。

紀元前53年の初夏、クラッススは再び川を越えた。率いるのは7個軍団を中心とする4万前後の兵で、騎兵の一部は、カエサルのもとから来た息子プブリウスが率いていた。同盟していたアルメニアの王は、山地を通る道を勧めたが、クラッススは平らな砂漠を進む道を選んだ。案内役のアラブの首長に欺かれて、水の乏しい平原に誘い込まれたとプルタルコスは書いている。

長槍コンタリオン(英語版)を構えたパルティアのカタフラクトがライオンと戦うレリーフ
長槍コンタリオン(英語版)を構えたパルティアのカタフラクトがライオンと戦うレリーフWikimedia Commons Public domain

パルティアの王オロデス2世は、自らアルメニアに兵を向け、ローマ軍の相手は若い貴族の将軍スレーナスに任せた。スレーナスの軍は、騎兵だけのおよそ1万だった。そのうち1000ほどは、人も馬も鎧で覆った重装騎兵で、残りは馬の上から弓を射る軽装の騎兵である。

いまのトルコ南東部、カルラエ(いまのハッラーン)の近くで、両軍はぶつかった。ローマ軍は四角い陣を組んで守りを固めた。パルティアの騎射兵は、陣の周りを駆け回りながら矢を浴びせ続けた。強い弓から放たれた矢は、ローマ兵の盾と鎧を貫いた。ローマ兵が追えば、騎射兵は逃げながら振り返って射る。追わなければ、離れたところから射続ける。重装騎兵は、ローマ兵が散らばったところへ突っ込んだ。

マルクス・リキニウス・クラッススの胸像(共和政期、ルーヴル美術館)
マルクス・リキニウス・クラッススの胸像(共和政期、ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Unknown Unknown · Public domain

ローマ兵は、敵の矢が尽きるのを待った。だが矢は尽きなかった。スレーナスは矢を積んだラクダの隊列を用意しており、騎射兵はそこから次々に矢を補った。追いつめられたクラッススは、息子プブリウスに騎兵を率いて敵を追い払うよう命じた。プブリウスは敵を追って陣から引き離され、包囲されて戦死した。パルティア兵は、プブリウスの首を槍の先に掲げてローマの陣の前を走り回った。

日が暮れると、ローマ軍は動けない負傷兵を置き去りにして、カルラエの町へ退いた。翌日、スレーナスは和平の話し合いを申し入れた。クラッススは罠を疑ったが、兵たちに迫られて会見に向かい、その場での小競り合いの中で殺された。プルタルコスによれば、ローマ側の死者は2万、捕虜は1万にのぼった。捕虜たちは、パルティアの東の果ての地へ送られたと伝えられる。生き延びた兵の一部は、のちにカエサル暗殺に加わるカッシウスに率いられてシリアへ逃れた。

カルラエで奪われた軍旗を返還するパルティア兵を描いたアウグストゥス期のローマ貨(前19年)
カルラエで奪われた軍旗を返還するパルティア兵を描いたアウグストゥス期のローマ貨(前19年)Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

ローマ軍は、軍団の象徴である鷲の旗も奪われた。ローマにとって旗を失うことは、敗北そのものよりも重い恥とされた。その旗が戻ってきたのは、33年後の紀元前20年である。アウグストゥスは、戦うことなく、パルティアとの外交交渉によって旗と生き残りの捕虜を取り返し、これを大きな勝利として宣伝した。アウグストゥスの立像の胸当てには、パルティア人が旗を返す場面が彫られている。

カルラエの敗北は、ローマの政治も変えた。三人のうちの一人が消え、残ったのはカエサルとポンペイウスの二人になった。二人の間を結んでいたカエサルの娘ユリアも、前の年に亡くなっていた。二人の対立は深まり、紀元前49年、カエサルはルビコン川を渡って内戦を始める(ルビコン渡河)。

ルビコン渡河に関わる図版:Crossing the Rubicon
ルビコン渡河Wikimedia Commons Jacob Abbott · Public domain

東では、ローマの拡大の限界が見えた。その後もアントニウスの遠征が失敗し、2世紀の初めにトラヤヌスが一時メソポタミアを征服したが(ローマ帝国の最大版図)、長くは保てなかった。ユーフラテス川のあたりが、ローマとイランの大国のおおよその境であり続ける。

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