人物

ポンペイウス

Gnaeus Pompeius Magnus
BC106年9月29日 – BC48年9月28日(享年57)
共和政ローマ重要度 5

概要

カエサルの盟友から敵手へ。ファルサルスで敗れ、逃れたエジプトで殺害された。

所属

共和政ローマ

関わったできごと(5)

セルトリウス戦争BC80年 · 勝てなかったポンペイウスのエルサレム占領BC63年 · 将軍第一回三頭政治BC60年 · 参加ルカ会談BC56年 · 三人ファルサルスの戦いBC48年8月9日 · ポンペイウス側 · 総指揮

本文

紀元前106年9月29日、イタリア中部のピケヌム地方に生まれた。父のポンペイウス・ストラボは執政官まで務めた将軍で、同盟市戦争で手柄を立てたが、強欲と冷酷さで兵にも民衆にも憎まれていた。父が死んだとき、民衆がその遺体を棺台から引きずり下ろしたと伝わる。17歳で父の陣営に加わり、戦場を知った。同じ陣営には、同い年のキケロもいた。

ポンペイウスの像(ヴェネツィア国立考古学博物館)
ポンペイウスの像(ヴェネツィア国立考古学博物館)Wikimedia Commons Didier Descouens · Public domain

ローマは内戦のただなかにあった。民衆派のマリウスの一党と、閥族派のスッラが争っていた。紀元前83年、スッラが東方から戻ってイタリアに上陸すると、23歳のポンペイウスは、父の地盤だったピケヌムで私費で3個軍団を集め、スッラのもとへ駆けつけた。官職も持たない若者が、自分の軍を率いて現れたのである。

スッラはこの若者を重く用いた。シチリアと北アフリカでマリウス派の残党を討たせ、ポンペイウスはまたたく間に片づけた。降伏した敵の将を容赦なく処刑し、「少年の死刑執行人」とあだ名された。スッラが彼を「大(マグヌス)」と呼んだのはこの頃で、ポンペイウスはこれを名の一部として使うようになる。元老院議員でもないのに凱旋式を求め、スッラにしぶしぶ認めさせた。スッラの独裁の下で、若い将軍の名は一気に上がった。

ロドヴィコ・ポリアーギ画『エルサレム神殿の至聖所に入るポンペイウス』(1883年)
ロドヴィコ・ポリアーギ画『エルサレム神殿の至聖所に入るポンペイウス』(1883年)Wikimedia Commons Lodovico Pogliaghi · Public domain

20代で軍を私費で組織してスッラに味方し、その称号を得た。その後もスペインでのセルトリウスの反乱の鎮圧に何年もかかわり、紀元前71年には、クラッススが鎮めたスパルタクスの反乱の逃げた残党を討って、反乱を終わらせたのは自分だと元老院に報告した。クラッススとの不仲はここから始まる。翌年、法定の年齢にも経歴にも達していないのに、そのクラッススと並んで執政官になった。35歳である。

地中海の海賊をわずか3か月で掃討し、東方で諸王国を再編して、ローマの版図を大きく広げた。紀元前67年、海賊のために穀物の輸送が脅かされ、ローマの食糧が危うくなると、民会はポンペイウスに地中海全域にわたる大きな指揮権を与えた。海を区域に分けてそれぞれに艦隊を置き、追い詰めていく作戦で、降った海賊は殺さずに土地を与えて農民にした。

翌年には、20年以上ローマを苦しめてきたポントスの王ミトリダテス6世との戦い(ミトリダテス戦争)の指揮を引き継いだ。ミトリダテスを黒海の北へ追い、のちに王は自害する。ポンペイウスはシリアに残っていたセレウコス朝を終わらせて属州とし、紀元前63年にはポンペイウスのエルサレム占領を行って、神殿の最も聖なる奥の間にまで足を踏み入れた。東方の諸王国を属州と従属国に組み直し、新しい都市を建て、ローマの国庫への収入を大きく増やした。軍功では当代一だった。

ミトリダテス戦争に関わる図版:PonticKingdom
ミトリダテス戦争Wikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ) · Public domain

紀元前62年、イタリアに戻ると、多くの人の予想に反して、ブルンディシウムで軍を解散した。軍を率いてローマに乗り込み、スッラのように独裁を敷くこともできたが、そうしなかった。紀元前61年、三度目の凱旋式を挙げた。

だが元老院は、彼の措置の追認と退役兵への土地分配を渋った。カトや、東方の前任者ルクッルスら元老院の重鎮が、彼の力が大きくなりすぎることを警戒したのである。そこでガイウス・ユリウス・カエサル、クラッススと私的に組む。紀元前60年のこの連携は、のちに第一回三頭政治と呼ばれる。カエサルが執政官になって、ポンペイウスの東方の措置と退役兵への土地分配を通した。

第一回三頭政治に関わる図版:César (13667960455)
第一回三頭政治Wikimedia Commons Gautier Poupeau from Paris, France · CC BY 2.0

翌年、カエサルの娘ユリアと結婚した。ポンペイウスは30歳ほど年下の妻を深く愛したと伝えられ、政略の結婚だったが、夫婦仲はよかった。カエサルがガリアで戦う間、ポンペイウスはローマにいて、紀元前55年、ローマで最初の石造りの常設劇場を建てた。劇場には集会の間が付属し、のちにカエサルが暗殺されるのは、その間の、ポンペイウスの像の足もとだった。

娘婿になったカエサルとの均衡は、ユリアの死とクラッススの戦死で崩れた。紀元前54年、ユリアがお産で死に、翌年、クラッススがパルティアとのカルラエの戦いで死んだ。ガリアで富と精鋭の軍と名声を手にしたカエサルを、ポンペイウスは同等の相手として見るようになる。紀元前52年、ローマの騒乱を鎮めるため、同僚の無い単独の執政官に任じられた。

カルラエの戦いに関わる図版:Battle of Carrhae (Caesarː A History Of The Art Of War Among The Romans Down To The End, vol. II, 1892)
カルラエの戦いWikimedia Commons Theodore Ayrault Dodge · Public domain

元老院側に引き寄せられ、内戦になる。紀元前49年1月、カエサルが軍を率いてルビコン渡河を行うと、ポンペイウスは、イタリアの土を踏み鳴らせば兵は湧いて出る、とかつて豪語していたにもかかわらず、軍を整えられず、元老院議員の多くとともにギリシアへ渡った。東方の諸王国とのつながりと、海を押さえる艦隊を頼りに、そこで態勢を立て直すつもりだった。

紀元前48年8月、ギリシア北部のファルサルスの戦いで、ポンペイウスは歩兵も騎兵も数で大きく勝っていた。だが、得意の騎兵でカエサル軍の側面を突こうとした策を見抜かれ、潰走した。持久戦を説いていたポンペイウスが、早く決着をつけたい元老院議員たちに押されて戦ったとも伝えられる。

ファルサルスの戦いに関わる図版:Battle of Pharsalus, 48 BC
ファルサルスの戦いWikimedia Commons The Department of History, United States Military Academy · Public domain

ファルサルスで敗れてエジプトへ逃げた。エジプトの王はまだ少年で、かつてポンペイウスの後ろ盾で王位を保った家の者だった。9月28日、迎えの小舟に乗り移ったところを、かつてローマ軍で彼の部下だった男らに刺された。58歳の誕生日の前日だった。船の上から妻のコルネリアがその様子を見ていた。プトレマイオス朝は勝者に取り入るつもりだった。

数日後に着いたカエサルは、差し出された首を見て泣き、殺した者たちを罰したと伝わる。ポンペイウスの息子たちは、その後もカエサルと、カエサルの後継者たちと戦い続けた。次男のセクストゥス・ポンペイウスは、長くシチリアの海を押さえている。

左からカエサル、クラッスス、ポンペイウス
左からカエサル、クラッスス、ポンペイウスWikimedia Commons Andreas Wahra, Diagram Lajard · CC0

共和政の秩序を守ろうとしながら、自らその秩序を超える特別の権限を何度も受けた人だった。名声を求め、元老院に認められたがり、最後は元老院の旗頭として、共和政を終わらせるカエサルと戦った。その生涯の終わりから4年後、カエサルもまた、ポンペイウスの劇場の一角で倒れることになる(カエサル暗殺)。

動画(1)

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