第一回三頭政治

概要
カエサル・ポンペイウス・クラッススの私的な盟約。元老院を迂回して国を動かした。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(3)
ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · 参加ポンペイウスBC106年9月29日–BC48年9月28日 · 参加クラッススBC115年頃–BC53年 · 参加本文
紀元前62年、ポンペイウスは東方から凱旋した。海賊を掃討し、ポントス王ミトリダテスを破り、シリアを属州にし、東方の王国の境界を引き直した。ローマで最も名声のある将軍だったが、彼はイタリアに上陸すると軍を解散した。かつてのスラのように兵を率いて都へ進むことはしなかった。
その結果、ポンペイウスには元老院を動かす手段が無くなった。彼が東方で決めた取り決めの一括承認と、退役兵への土地の分配は、ルクルスや小カトーらに阻まれ、1年以上棚上げにされた。元老院の主流は、一人の将軍が大きくなりすぎることを何より警戒していた。

ローマ一の富豪クラッススも、別の件で行き詰まっていた。アジア属州の徴税を請け負った業者たちが、落札額が高すぎたとして減額を求めており、クラッススはその後ろ盾だった。これもカトーが反対して通らない。
そこへ、ヒスパニアの総督を終えたガイウス・ユリウス・カエサルが戻ってきた。彼は凱旋式の挙行と、翌年の執政官への立候補を同時に望んだ。凱旋式を待つ将軍は市の境界の外にいなければならず、立候補は本人が市内で届け出る決まりだった。特例を求めたがカトーの議事妨害で潰され、カエサルは凱旋式を捨てて立候補を選んだ。
こうして、いずれも元老院に行く手を阻まれた三人が手を結んだ。ポンペイウスとクラッススは長年の不仲だったが、カエサルが間を取り持ったとされる。成立は紀元前60年の末、カエサルの執政官当選の前後とみられる。取り決めの中身は、三人の誰にも不利になることは国政で行わない、という程度のものだったと伝えられる。法的な裏付けのない私的な盟約で、公の役職ではない。「三頭政治」という呼び名も後世のものである。キケロも誘われたが、加わらなかった。
紀元前59年、執政官になったカエサルは、ポンペイウスの退役兵のための土地法を元老院ではなく民会にかけた。同僚の執政官ビブルスが反対すると、ポンペイウスの退役兵たちが集会の場を押さえ、ビブルスは頭から汚物をかけられて追い払われた。ビブルスはその後、家にこもって凶兆を観測していると宣言し、公務を拒み続けた。人々はこの年を、ユリウスとカエサルが執政官だった年、と皮肉ったという。

この年、ポンペイウスの東方の取り決めは追認され、徴税請負人の減額も通った。カエサルは任期後の任地として、北イタリアとイリュリクムの総督職を5年分手に入れ、元老院はそこにアルプスの向こうのガリアも加えた。これがのちのガリア戦争の舞台になる。盟約を固めるため、カエサルの娘ユリアがポンペイウスに嫁いだ。年の差は大きかったが、夫婦仲は良かったと伝えられる。
三人が去ったあとのローマを押さえたのが護民官のクロディウスだった。紀元前58年、彼はキケロを追放に追い込み、カトーをキプロスの併合という名目で遠ざけた。同時代の学者ウァロは、この盟約を「三つの頭の怪物」と題した文章で揶揄したと伝えられる。

盟約は何度も揺らいだ。紀元前56年、カエサルはガリアから出てルカ会談で二人と会い、関係を結び直す。翌年ポンペイウスとクラッススがそろって執政官になり、カエサルのガリアでの任期は5年延長された。ポンペイウスはヒスパニア、クラッススはシリアの総督職を得た。
均衡を支えていたものは、次々に失われた。紀元前54年、ユリアが出産で命を落とし、子も間もなく死んだ。翌年、パルティア遠征に出たクラッススがカルラエの戦いで敗死する。残ったのはガリアで巨大な軍と富を手にしたカエサルと、ローマにとどまったポンペイウスの二人だけになった。

紀元前52年、クロディウスの殺害で都が騒乱に陥ると、元老院はポンペイウスを単独の執政官に任じた。かつて彼を阻んだ元老院の主流が、カエサルへの対抗馬として彼を担いだのである。紀元前49年、カエサルはルビコン渡河で内戦に踏み出す。
この盟約は、共和政の制度を一つも廃止していない。執政官も民会も元老院も、それまでどおりに開かれていた。ただ、どの選挙で誰が勝ち、どの法が通るかを、制度の外の合意が先に決めるようになった。17年後、カエサルの後継者たちが結ぶ第二回三頭政治は、同じ形を法律で正式な役職にしている。