ポンペイウスのエルサレム占領
概要
ユダヤの王家の兄弟争いに呼ばれ、神殿の丘を三か月囲んで安息日に落とした。至聖所に入って、何も無いのを見た。ユダヤはローマの属国になり、以後、ローマから離れられない。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
ポンペイウスBC106年9月29日–BC48年9月28日 · 将軍本文
紀元前2世紀のなかば、ユダヤの人々は、セレウコス朝のシリアの王に対して立ち上がり(マカバイの反乱)、独立を勝ち取った。反乱を率いたマカバイの一族は、ハスモン家と呼ばれる王朝を開き、大祭司と王を兼ねてユダヤを治めた(ハスモン朝の独立)。ハスモン朝は周りの地域を征服して領土を広げたが、紀元前1世紀に入ると、王家の内部の争いで揺らいでいった。
紀元前67年、王家を治めていた女王サロメ・アレクサンドラが死ぬと、二人の息子が王位を争った。兄のヒルカノス2世は穏やかな人で、母のもとで大祭司を務めていた。弟のアリストブロス2世は野心と行動力に富み、兵を集めて兄を退け、自ら王と大祭司の地位に就いた。兄の側には、南のイドゥマヤ出身の有力者アンティパトロスがつき、ヒルカノスを担いで、さらに南のナバテア王国の王の兵を借りて、エルサレムのアリストブロスを囲んだ。のちのヘロデ大王の父が、このアンティパトロスである。
そのころ、東方にはポンペイウスがいた。ローマの将軍ポンペイウスは、長くローマを苦しめてきたポントスの王ミトリダテス6世を破り(ミトリダテス戦争)、東方の秩序を作り直していた。紀元前64年には、すでに衰えきっていたセレウコス朝を終わらせて、シリアをローマの属州にしている。兄弟はそれぞれ、ポンペイウスの部下に贈り物を携えて訴え出た。紀元前63年の春、ポンペイウスはダマスクスで、ヒルカノスとアリストブロス、それに王政そのものをやめて祭司による統治に戻してほしいと願う人々の代表の、三者の言い分を聞いた。ポンペイウスはすぐには裁定しなかったが、アリストブロスは待てずにローマへの態度を硬くし、ポンペイウスは軍を進めた。

アリストブロスはいったん降伏を申し出たが、エルサレムの彼の支持者たちは城門を閉じて抵抗した。町の中は割れた。ヒルカノスの側の人々は城門を開いてローマ軍を迎え入れ、アリストブロスの側の人々は、堅固な城壁に囲まれた神殿の丘に籠もった。ポンペイウスは神殿の丘を囲み、およそ3か月にわたって攻めた。
ユダヤの歴史家ヨセフスによれば、ユダヤ人は安息日には、自分の身を守るために戦うことは許されても、攻撃をしかけてくるのでもない敵の作業を妨げることはしなかった。ローマ軍はそれを見抜き、安息日ごとに土塁を築き、攻城の機械を据えた。ついに城壁が破られ、ローマ兵がなだれ込むと、神殿の中では、祭司たちが逃げることもなく、いつものとおり犠牲を捧げ続け、祭壇のそばで殺されたという。この日、1万2000人が死んだとヨセフスは書いている。

ポンペイウスは、神殿の最も奥の至聖所に足を踏み入れた。そこは、大祭司だけが、年に一度だけ入ることを許された場所である。ローマ人のあいだには、ユダヤ人は神殿の奥に神の像を隠している、という噂もあった。だが、至聖所の中には何もなかった。神の像はなく、ただ空間があるだけだった。手前の聖所には、金の机と燭台、香料と、2000タラントにのぼる神殿の財宝があったが、ポンペイウスは何一つ持ち出さなかった。翌日、ポンペイウスは神殿を清めさせ、犠牲の儀式を再開させた。ローマの政治家キケロも、のちの法廷の弁論で、ポンペイウスが神殿の財宝に手を触れなかったことに言及している。それでも、異邦人が至聖所に入ったことは、ユダヤの人々に深い傷を残した。
ポンペイウスはヒルカノスを大祭司に据えたが、王の称号は与えなかった。ユダヤの領土は大きく削られ、ハスモン朝が征服していた沿岸の町々やヨルダン川の東の町々は切り離されて、シリア属州の管轄の下に置かれた。ユダヤはローマに貢納を納める国になった。アリストブロスとその子どもたちは捕虜としてローマへ送られ、紀元前61年のポンペイウスの凱旋式で引き回された。ローマに連れて来られたユダヤ人の捕虜の多くは、やがて解放され、ローマのユダヤ人共同体を大きくしたとされる。
ポンペイウスのその後は、ユダヤの人々の目には天罰と映った。この時代のユダヤの詩を集めた『ソロモンの詩編』には、神殿を汚した傲慢な異邦人の将軍が、エジプトの浜辺で殺されて屍をさらした、という歌がある。紀元前48年、内戦でカエサルに敗れたポンペイウスが、逃れた先のエジプトで殺されたことを指すと考えられている。
紀元前63年は、ユダヤがローマの手の中に入った年である。紀元前37年には、アンティパトロスの子のヘロデ大王がローマの後ろ盾で王となり、神殿を壮麗に建て替えた(ヘロデの神殿)。イエスが生まれ、説き、処刑されたのは、このローマの支配の下のユダヤだった(イエス)。そして紀元66年に始まる大反乱の末、ローマ軍は神殿を焼き払うことになる(エルサレム神殿の破壊)。ポンペイウスが空の至聖所を見てから、130年余りのちのことだった。