ルカ会談
概要
カエサルがガリアから戻り、ポンペイウスとクラッススと三人で密約を更新した。元老院議員200人が挨拶に並んだ。二人が執政官、カエサルは5年延長。共和政の決定が、三人の私邸で決まった。
場所
43.84°N 10.50°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(3)
ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · 三人ポンペイウスBC106年9月29日–BC48年9月28日 · 三人クラッススBC115年頃–BC53年 · 三人本文
紀元前60年、ローマの有力者三人が、ひそかに手を結んだ。ガリアでの名声をまだ持たない野心家のガイウス・ユリウス・カエサル、東方の征服から凱旋した将軍ポンペイウス、ローマ一の富豪クラッススである。元老院に思うようにさせない、互いの望みを通し合う、という私的な約束で、のちに第一回三頭政治と呼ばれる。翌59年、カエサルは三人の後押しで執政官になり、任期の後は5年間、北イタリアとガリアの属州総督に就いた。58年から始まったガリアでの戦い(ガリア戦争)で、カエサルは勝ち続け、57年には元老院が15日間の感謝祭を決議するほどの評判を得た。
だが、三人の結びつきは、紀元前56年の春には崩れかけていた。ローマの町では、かつてカエサルと組んで護民官を務めたクロディウスと、ポンペイウス派のミロが、それぞれ手下を率いて街頭で殴り合いを繰り返していた。ポンペイウスとクラッススは昔から仲が悪く、ポンペイウスはクロディウスの背後にクラッススがいると疑っていた。

その隙を、反対派は見逃さなかった。前年、ポンペイウスの尽力で亡命から呼び戻されていたキケロは、4月、カエサルが執政官のときに通したカンパニアの土地の分配法を、5月に元老院であらためて審議しようと提案した。三人の約束の柱を揺さぶり、ポンペイウスをカエサルから引き離せると考えたのである。さらに、翌年の執政官を狙うドミティウス・アヘノバルブスは、当選したらカエサルからガリアの指揮権を取り上げると公言していた。
カエサルは動いた。まずラウェンナでクラッススと会い、続いて4月、自分の属州の南の端にある町ルカ(いまのトスカーナのルッカ)で、ポンペイウスと会った。属州総督は、軍の指揮権を持ったまま本国イタリアに入ることを許されていなかった。ルカは、カエサルがローマに最も近づける場所だった。ポンペイウスは、穀物の調達の任務でサルデーニャへ向かう途中に立ち寄るという形をとった。

プルタルコスは、このときルカに200人の元老院議員が集まり、高官の先導役が携える権標の束が120本も並んだと伝えている。誇張はあろうが、ローマの政治の中心が、一時的に、北イタリアの小さな町へ移ったことをよく示す場面である。三人は密約を結び直した。翌55年にポンペイウスとクラッススがそろって執政官になる。任期の後、ポンペイウスはスペイン、クラッススはシリアの総督として、それぞれ5年の任期を得る。カエサルのガリアでの指揮権も、さらに5年延ばす。国の大事が、元老院でも民会でもなく、三人の私的な話し合いで決められたのである。
キケロは土地法の審議の提案を取り下げた。それどころか、元老院でカエサルの属州の任期を延ばす側に回る演説までした。彼は親友アッティクスへの手紙で、自分のこの転向を、昔の詩人が前言を取り消した歌になぞらえて「撤回の歌」と呼び、自嘲している。弟のクィントゥスが、兄がおとなしくしていることを、ポンペイウスに請け合っていたのだった。

約束の実行は、力ずくで行われた。55年の執政官選挙では、ドミティウスが投票の朝に広場へ向かう途中で襲われ、松明持ちが殺され、同行した小カトーも傷を負った。ポンペイウスとクラッススは当選し、二人の属州を定める法を通した。カトーは反対の演説を延々と続けて採決を引き延ばそうとしたが、議場から引きずり出された。
だが、ルカで結び直された絆は長くは続かなかった。紀元前54年、カエサルの娘でポンペイウスの妻だったユリアがお産で亡くなり、二人をつなぐ私的な糸が切れた。53年には、クラッススがパルティアとの戦いで敗死した(カルラエの戦い)。三人は二人になり、52年にクロディウスが殺されて(クロディウスの殺害)ローマが混乱すると、ポンペイウスは元老院の側へと近づいていく。ルカで延ばされたカエサルの指揮権が切れる時期をめぐる争いは、やがて紀元前49年のルビコン渡河と内戦へとつながった。共和政の命運を決める話し合いが、共和政の外で行われる。ルカの会談は、その始まりを象徴する出来事として記憶されている。