マルクス・アントニウス
概要
カエサルの腹心。クレオパトラと結んだが、アクティウムで敗れて自死した。
所属
共和政ローマ関わったできごと(2)
第二回三頭政治と追放告示BC43年11月 · 三頭フィリッピの戦いBC42年10月23日 · 勝者本文
マルクス・アントニウスは紀元前83年、ローマの名家に生まれた。祖父は高名な弁論家で、マリウスとスッラの内戦のさなかにマリウス派に殺された。父は海賊の討伐を任されながら失敗し、任地で死んでいる。母はユリウス家の出で、ガイウス・ユリウス・カエサルの遠い親族にあたる。母が再婚した継父は、紀元前63年の国家転覆の陰謀に加わったとして、執政官だったキケロの命で処刑された。アントニウスとキケロの生涯にわたる憎しみは、ここに始まるとプルタルコスは書いている。

若い頃のアントニウスは、酒と賭け事と女に明け暮れ、莫大な借金を作った。それから逃れるようにギリシアに渡って弁論を学び、やがて軍に加わった。紀元前57年からシリアの総督のもとで騎兵を率い、ユダヤでの戦いや、エジプト王プトレマイオス12世を王位に戻す遠征で手柄を立てた。このとき、王の娘で14歳ほどだったクレオパトラ7世を目にしたという伝えもある。
紀元前54年からは、ガリアで戦うカエサルのもとに移り、その副官として信頼を得た。体格がよく、兵士と同じものを食べ、同じ場所で寝て、気前よく物を分け与える将校で、兵たちに慕われた。紀元前49年、護民官として元老院でカエサルの側に立ち、拒否権を使ってカエサルを追い詰める決議に抵抗したが、元老院から締め出されてカエサルの陣営に逃れた。護民官の身に危険が及んだことは、カエサルがルビコン川を渡る口実の一つになった(ルビコン渡河)。翌年のファルサルスの戦いでは、カエサルの軍の左翼を任されている。

カエサルが独裁官としてローマを留守にする間、アントニウスは騎兵長官としてイタリアを預かったが、享楽ぶりと強引な統治で評判を落とし、一時はカエサルの不興を買った。それでも紀元前44年にはカエサルと並んで執政官となる。2月のルペルカリア祭で、アントニウスは王冠をカエサルに三度差し出し、カエサルは三度拒んだ。群衆の反応を試す芝居だったとも言われる。
その翌月の3月15日、カエサルは元老院の議場で暗殺された(カエサル暗殺)。アントニウスは一時身を隠したが、すぐに執政官として事態を握った。暗殺者たちとはいったん和解して恩赦を認めさせたうえで、カエサルの葬儀でその遺言を読み上げ、市民一人ひとりへの遺贈を明かし、刺し傷で裂けた血まみれの衣を群衆に示した。激昂した群衆は遺体をフォルムで焼き、暗殺者たちの家に火を放とうとした。暗殺者たちはローマを去らざるを得なくなった。シェイクスピアの劇で有名な葬送の演説は、この場面をもとにした創作である。

ところが、カエサルの遺言で養子とされたのは、19歳の大甥オクタウィアヌス、のちのアウグストゥスだった。若者を侮ったアントニウスは、カエサルの遺産と後継の座を独り占めしようとして、彼と対立した。キケロは元老院で十数回にわたってアントニウスを攻撃する演説を行い、アントニウスは国家の敵とされて、紀元前43年、北イタリアのムティナで敗れた。アルプスを越えて退く途中、それまでの贅沢な暮らしを捨てて濁った水を飲み、木の皮を食べて兵と苦しみをともにしたと伝えられる。
だが同じ年のうちに、アントニウスはオクタウィアヌス、レピドゥスと手を組み、国家再建のための三人委員として全権を握った(第二回三頭政治と追放告示)。三人は政敵の名を掲げて殺害を許し、その財産を奪った。アントニウスはキケロの名を名簿に加えさせた。キケロは殺され、その首と、アントニウスを攻撃する演説を書いた右手は、フォルムの演壇にさらされた。紀元前42年、マケドニアのフィリッピで、カエサル暗殺の首謀者ブルートゥスとカッシウスを破った(フィリッピの戦い)。この戦いの勝利の立役者は、病に伏せっていたオクタウィアヌスではなくアントニウスだった。

勝利の後、アントニウスは帝国の東半分を受け持った。紀元前41年、小アジアのタルソスにクレオパトラを呼び寄せると、女王は金色の船尾と紫の帆を備えた船で川をさかのぼって現れた。アントニウスはその冬をアレクサンドリアで過ごした。紀元前40年にはオクタウィアヌスと和解し、その姉オクタウィアと結婚したが、やがて再び東方へ戻り、クレオパトラとの間に3人の子をもうけた。
二人の結びつきは、恋愛だけでは説明できない。アントニウスが計画していたパルティアへの遠征には、莫大な資金と穀物が必要で、それを持っていたのはエジプトだった。クレオパトラにとっても、ローマの実力者との同盟は王国を保つ道だった。紀元前36年のパルティア遠征は失敗に終わり、退却の途中で2万を超える兵を失った。紀元前34年、アントニウスはアレクサンドリアで盛大な式典を行い、クレオパトラとその子らに東方の領土を分け与えると宣言した。

これはローマで格好の攻撃材料になった。オクタウィアヌスは、アントニウスが東方の女王に心を奪われてローマを裏切ったと宣伝し、アントニウスの遺言状を巫女のもとから持ち出して、死後はアレクサンドリアに葬られたいという部分を公にした。紀元前32年、アントニウスはオクタウィアと離婚し、ローマはクレオパトラに宣戦した。
紀元前31年9月、ギリシア西岸のアクティウムの沖で両軍の艦隊がぶつかった(アクティウムの海戦)。戦いのさなかにクレオパトラの船団が戦列を離れて南へ去ると、アントニウスもそれを追った。残された艦隊と陸軍は、次々にオクタウィアヌスに降った。翌年、オクタウィアヌスの軍がアレクサンドリアに迫るなか、クレオパトラが死んだという誤った知らせを聞いたアントニウスは、自らの剣で腹を突いた。まだ息のあるうちに、女王が立てこもる霊廟へ運ばれ、その腕の中で死んだとプルタルコスは書いている(クレオパトラの死)。53歳だった。

ローマの元老院は、アントニウスの像を倒し、その誕生日を不吉な日と定め、アントニウス家の者がマルクスという名を名のることを禁じた。記録からその名を消し去ろうとしたのである。私たちが知るアントニウスの姿の多くは、勝者の側の宣伝と、彼を憎んだキケロの演説を通して伝わったものだ。それでも、彼の血は絶えなかった。オクタウィアとの間に生まれた娘たちの子孫から、のちにカリグラ、クラウディウス、ネロの三人の皇帝が出ている。