人物

クラッスス

Marcus Licinius Crassus
BC115年頃 – BC53年(享年62・推定)
共和政ローマ重要度 3

概要

ローマ随一の富豪。三頭政治の一角を占めたが、カルラエでパルティアに敗れて死んだ。

所属

共和政ローマ

関わったできごと(3)

第一回三頭政治BC60年 · 参加ルカ会談BC56年 · 三人カルラエの戦いBC53年 · ローマ側 · 総指揮

本文

紀元前115年頃、ローマの名門リキニウス氏に生まれた。父は執政官も監察官も務めた人物で、家は格式こそ高いが、飛び抜けて裕福ではなかったとプルタルコスは書く。

共和政末期ローマ人の胸像(コペンハーゲン、グリプトテーク)
共和政末期ローマ人の胸像(コペンハーゲン、グリプトテーク)Wikimedia Commons Diagram Lajard · CC0

若いころ、ローマはマリウス派とスッラ派の内戦に引き裂かれていた。紀元前87年、マリウス派がローマを握ると、父と兄は命を落とした。クラッススはヒスパニアへ逃れ、知人の領地の海辺の洞窟に8か月隠れて過ごしたという。やがて兵を集めてスッラのもとに加わり、紀元前82年のコリナ門の戦いでは右翼を率いて勝利を決めた。

富を築いたのは、その後の粛清のときだった(スッラの独裁)。処罰者名簿に載った者の財産は競売にかけられ、クラッススはそれを安く買い集めた。財産目当てに、ある人物の名を名簿に書き加えさせたという話まで残る。私設の消防隊を持ち、火事の現場で家主に建物を買い叩いてから消させた、という話もプルタルコスにある。銀山、奴隷の職人の訓練と貸し出し、金貸しと、手を広げられるところにはすべて手を広げた。自分の収入で一軍団を養えない者は富者とは呼べない、と言ったと伝えられる。若いころ、ウェスタの巫女リキニアと密通したと訴えられたことがある。調べてみると、彼は巫女の持つ郊外の屋敷を安く手に入れようと、しつこく付きまとっていただけだった。無罪にはなったが、屋敷を手に入れるまで付きまとうのをやめなかった、とプルタルコスは皮肉を込めて書く。

"Cicerone denuncia Catilina"、キケロによるカティリナ弾劾演説を描いたイタリア人画家チェーザレ・マッカリ(英語版)による1888年の作
"Cicerone denuncia Catilina"、キケロによるカティリナ弾劾演説を描いたイタリア人画家チェーザレ・マッカリ(英語版)による1888年の作Wikimedia Commons Cesare Maccari · Public domain

金は政治の道具だった。若い政治家たちに金を貸し、法廷で弁護を引き受け、恩を売った。借金に苦しむ若いガイウス・ユリウス・カエサルの保証人になったのもその一つである。

紀元前73年、スパルタクスの反乱が起こり、剣闘士たちに率いられた奴隷の軍がイタリアを荒らした。執政官の軍が続けて敗れたあと、法務官級のクラッススが指揮を任された。逃げ出した部隊に、10人に1人を処刑する古い罰を科して軍紀を締め直したとされる。紀元前71年、南イタリアでスパルタクスの軍を破った。捕らえた6000人は、カプアからローマへ向かうアッピア街道沿いに磔にされた。

マルクス・リキニウス・クラッススの胸像(共和政期、ルーヴル美術館)
マルクス・リキニウス・クラッススの胸像(共和政期、ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Unknown Unknown · Public domain

ところが、戦場から逃れた一団を、ヒスパニアから戻ったポンペイウスが討ち取った。ポンペイウスは、反乱の根を断ったのは自分だと元老院に書き送った。クラッススに許されたのは、格の低い小凱旋式だけだった。紀元前70年、二人はそろって執政官になるが、仲は冷えたままだった。紀元前65年には監察官になり、ポー川の北の住民に市民権を与えることや、エジプトを併合することを企てたが、同僚の反対でどちらも果たせなかった。紀元前63年にカティリナの陰謀が発覚したときには、キケロの周辺で、クラッススも裏で関わっていたのではないかという噂が流れた。確かな証拠は出ていない。

富ではローマ一だったが、軍功ではポンペイウスに劣り、のちにはカエサルにも劣る。それが最後まで彼を動かした。紀元前60年、三人は手を組み、第一回三頭政治が生まれる。元老院の抵抗を、三人の金と兵と人気で押し切る私的な同盟だった。紀元前56年の会談で同盟を結び直し、翌年クラッススは再び執政官となって、任地にシリアを得た。

第一回三頭政治に関わる図版:César (13667960455)
第一回三頭政治Wikimedia Commons Gautier Poupeau from Paris, France · CC BY 2.0

狙いは東の大国パルティアだった。元老院にはパルティアと戦う理由を認めない声も強く、ローマを発つとき、護民官の一人が城門で彼に呪いをかけたと伝えられる。60歳を過ぎていた。

紀元前53年、メソポタミアの平原で、パルティアの将軍スレナスの騎兵に包囲された(カルラエの戦い)。馬上から射かける弓兵と、矢を運ぶラクダの列に、重装歩兵は手も足も出なかった。息子プブリウスは突撃して戦死し、その首を槍に掲げて見せられた。クラッスス自身も、退却の途中で和議の席に呼び出され、そこで殺された。軍団の鷲の旗が奪われ、取り戻されるのは30年以上あとのアウグストゥスの時代になる。

カルラエの戦いに関わる図版:Battle of Carrhae (Caesarː A History Of The Art Of War Among The Romans Down To The End, vol. II, 1892)
カルラエの戦いWikimedia Commons Theodore Ayrault Dodge · Public domain

首はアルメニア王の宮廷に送られ、ギリシア悲劇の上演に小道具として使われたとプルタルコスは書く。溶かした金を口に流し込まれたという話は、カッシウス・ディオが伝えるものだが、事実かどうかは確かめられない。富への執着を象徴させる最期として語られてきた。

クラッススの死で、三人の均衡は崩れた。カエサルとポンペイウスのあいだに立つ者がいなくなり、4年後のルビコン渡河へと続いていく。

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