ティベリウス・グラックス
概要
農地改革を進めた護民官。任期中に元老院派に撲殺され、共和政の内乱の世紀が始まる。
所属
共和政ローマ関わったできごと(1)
ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺BC133年 · 護民官本文
ティベリウス・センプロニウス・グラックスは紀元前163年ごろ、ローマの名門に生まれた。同名の父は二度執政官を務めた政治家で、ヒスパニアの総督として現地の部族と寛大な条約を結び、長く信頼された人物だった。母のコルネリアは、ハンニバルを破った大スキピオの娘である。夫婦には12人の子が生まれたが、成人したのはティベリウスと弟のガイウス、娘のセンプロニアの3人だけだった。

父が早く亡くなると、コルネリアは再婚の申し出をすべて断り、子どもの教育に打ち込んだ。ギリシア人の学者を家庭教師に招き、息子たちに弁論と哲学を学ばせた。ある婦人が自慢の宝石を見せびらかし、あなたの宝石も見せてほしいと言うと、コルネリアは学校から帰ってきた息子たちを指して、これが私の宝石です、と答えたという。ローマ人が理想の母として語り継いだ逸話である。姉のセンプロニアは、養子縁組の上では従兄にあたる小スキピオに嫁いだ。
ティベリウスは若くして、義兄スキピオのもとで第三次ポエニ戦争に従軍し、カルタゴの城壁に最初に登った者の一人として名を上げた(カルタゴ滅亡)。紀元前137年には、財務官としてヒスパニアに赴いた。執政官マンキヌスの軍がヌマンティアの人々に包囲されて全滅の危機に陥ったとき、ヌマンティアの人々は、父の代からのグラックス家への信頼から、ティベリウスとなら交渉すると言った。ティベリウスは降伏の条約を結び、2万人の兵の命を救った。ところがローマの元老院は、この条約を恥ずべきものとして認めず、責任者のマンキヌスを裸にして縛り、ヌマンティア側に引き渡した。ティベリウスは民衆の支持で処罰を免れたが、自分の結んだ約束を国に踏みにじられたことは、深い傷として残った。

弟ガイウスが書き残したところによれば、ティベリウスはヒスパニアへ向かう道中、エトルリアの地を通り、広い農地で働いているのが自由な農民ではなく、外から連れてこられた奴隷ばかりであるのを見て、改革を決意したという。ローマは2世紀にわたる征服の戦争で富を得たが、兵士として長く戦場に出た農民たちは畑を失い、土地は征服で手に入れた公有地を占有する富裕な者の大農場に吸い込まれていた。農民が減れば、財産を持つ市民から兵を取るローマの軍は兵を失う。征服がローマを支えてきた人々を痩せ細らせていた。
紀元前133年、護民官となったティベリウスは、農地法を民会に提案した(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)。公有地を一人で占有できる広さを500ユゲラ(約125ヘクタール)までとし、子がいればその分を加えて上限を設ける。それを超える分は国が取り戻し、土地を持たない市民に小さな区画に分けて与える。与えた土地は売ることを禁じる。法としては古くからあった規定を、実際に行うための仕組みを作ろうとしたのである。地中海の各地で、征服した土地で富を得ていた元老院の有力者たちの多くは、これに強く反対した。

元老院派は、ティベリウスの同僚の護民官オクタウィウスを動かして、拒否権を行使させた。護民官の拒否権は、どの提案でも止めることができる。ティベリウスは繰り返し説得したが、オクタウィウスは応じなかった。そこでティベリウスは、民衆の利益に反する護民官はその職にとどまる資格がないとして、民会の投票でオクタウィウスを罷免させた。前例の無い手続きだった。法は成立し、ティベリウスと弟ガイウス、義父のアッピウス・クラウディウスの三人が、土地を分配する委員に選ばれた。
続いてティベリウスは、ちょうどローマに遺贈されたペルガモン王国の財産を(ペルガモン王国)、土地を受け取った市民が農具や種を揃える資金に充てると提案した。財政と外交は元老院の領分とされていたから、これも慣例への挑戦だった。正当性の根拠を、代々の慣例と元老院の権威に置くのか、民会に集まる市民の意思に置くのか。改革は、共和政の根本をめぐる争いになった。ティベリウスは王になろうとしている、という噂が流された。
任期は1年で、任期が終われば訴追される恐れがあった。ティベリウスは翌年の護民官にも続けて立候補した。これも慣例に反していた。選挙の日、カピトリウムの丘で民会が開かれ、混乱のなかで、元老院では、執政官に武力で止めるよう求める声が上がった。執政官が応じないと、最高神祇官のスキピオ・ナシカが、国家を救おうとする者は私に続け、と叫び、元老院議員たちが従者を引き連れて飛び出した。彼らは議場の椅子を壊してその脚を棍棒にし、ティベリウスとその支持者を打ち倒した。ティベリウスは頭を打たれて死に、支持者300人以上が殺された。遺体はティベル川に投げ込まれた。
共和政が始まってからおよそ400年、ローマ人は政治の争いを、市民どうしの流血に訴えずに解決してきたと自負していた。その慣例は、ここで破られた。農地の分配の委員会はその後もしばらく活動を続け、多くの市民に土地が与えられたことが、発見された境界石からわかっている。10年後、弟のガイウスが護民官となって兄の改革を引き継ぎ、さらに大きな改革に乗り出すが、同じように元老院派の武力の前に倒れる(ガイウス・グラックスの改革と死)。改革の是非をめぐる対立は、やがてマリウスやスッラといった、軍を率いる者どうしの内戦へと形を変えていく。グラックス兄弟の死から、ローマの共和政が帝政に変わるまでの1世紀は、内乱の世紀と呼ばれる。