できごと

最初のパラリンピック

1960 Summer Paralympics
AD1960年9月18日
重要度 3
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概要

第二次世界大戦で、背骨を撃たれて下半身が動かなくなった兵が大勢いた。イギリスのストーク・マンデヴィル病院に来たドイツ出身の医師ルートヴィヒ・グットマンは、寝たきりにさせず体を動かすことを治療の柱にし、1948年、車椅子の競技会を開いた。それが各国に広がり、1960年、オリンピックの閉会から七日後のローマで、二十三か国、四百人の大会が開かれた。のちに第一回のパラリンピックと数えられる。障害のある体を、治す対象としてだけでなく、競う体として人前に出したことが、この大会の転換点だった。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

本文

第二次世界大戦では、背骨を撃たれたり、爆撃で崩れた建物の下敷きになったりして、脊髄を傷つけた兵や市民が大勢出た。脊髄が切れると、そこから下の体は動かなくなり、感覚も失われる。当時、そうした人々の扱いは決まっていた。寝かせておくことである。動けない体は同じ姿勢のまま床ずれを作り、そこから感染が広がる。膀胱の感染も命取りになった。脊髄を損傷した人の多くは、数年のうちに亡くなった。治らないのだから仕方がない、と医師たちも考えていた。

それを変えたのが、ルートヴィヒ・グットマン(1899〜1980年)である。ドイツのユダヤ人の家に生まれた神経外科医で、ドイツでも指折りの腕を持っていた。だがナチスの政権掌握の後、ユダヤ人の医師は病院を追われ、彼もユダヤ人の病院でしか働けなくなった。1939年、グットマンは家族とともにイギリスへ逃れた。

ナチスの政権掌握に関わる図版:Hitler as young man
ナチスの政権掌握Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1944年、イギリス政府は、ノルマンディー上陸作戦で多くの負傷者が出ることを見越して、ロンドンの北西にあるストーク・マンデヴィル病院に脊髄損傷の専門の科を作り、その責任者にグットマンを据えた。彼は、それまでの常識をことごとく覆した。看護の人々に、二時間おきに患者の体の向きを変えさせ、床ずれを作らせない。患者を寝かせたままにせず、起こして車椅子に乗せる。そして、腕と上半身を鍛えさせ、体を動かさせる。目標は、病院のベッドから出て、社会に戻り、仕事に就けるところまで持っていくことだった。

体を動かす方法として、グットマンが重んじたのがスポーツだった。車椅子に乗ったまま球を投げ合い、弓を引く。スポーツは筋力をつけるだけでなく、生きる気力を取り戻させる。ほかの人と競い合う楽しさが、絶望していた若い兵たちの顔つきを変えていった。

開会式に入場するイタリア選手団(1960年ローマ・パラリンピック)
開会式に入場するイタリア選手団(1960年ローマ・パラリンピック)Wikimedia Commons INAIL · Public domain

1948年7月29日、ロンドンでオリンピックの開会式が行われたその日に、グットマンは病院の芝生の上で、車椅子の人々の競技会を開いた。出場したのは、元兵士の男女十六人。種目はアーチェリーだった。グットマンは、いつかこの大会が、障害のある人々のオリンピックになる日が来ると語ったという。

大会は毎年続けられた。1952年にはオランダの元兵士たちが加わり、国際大会になった。参加する国は年ごとに増え、種目も、卓球、水泳、フェンシング、車椅子のバスケットボールなどへ広がっていった。

1960年、オリンピックが開かれたローマで、その閉会から一週間後の9月18日、同じ町で車椅子の人々の国際大会が開かれた。二十三か国から、四百人ほどの選手が集まった。開会式には五千人ほどの観客が詰めかけ、大会の期間中にはローマ教皇が選手たちを謁見している。当時の大会の名は「国際ストーク・マンデヴィル競技大会」だったが、のちにこれが第一回のパラリンピックと数えられることになる。このとき出場できたのは、脊髄を損傷した車椅子の選手だけだった。

四年後の1964年、オリンピックが開かれた東京でも、同じように大会が開かれた(東京オリンピック)。このとき、大会の愛称として「パラリンピック」という名が使われた。下半身のまひを意味する言葉とオリンピックを合わせた造語である。この東京の大会で、日本の関係者たちは驚いた。海外から来た選手の多くは、ふだん仕事を持ち、家庭を持って暮らしていて、大会の合間には町へ買い物や観光に出かけていった。一方、日本の選手の多くは療養所や施設で暮らす人々で、仕事を持つ人はわずかだった。この差が、日本で障害のある人が働く場を作る運動のきっかけの一つになったと言われる。大会の誘致と運営に力を尽くした大分の医師中村裕は、のちに障害のある人が働く工場を作っている。

パラリンピックはその後、視覚に障害のある人、手足を失った人、脳性まひの人など、さまざまな障害のある選手へと対象を広げていった。1988年のソウル大会からは、オリンピックと同じ都市、同じ会場で開くことが定着し、「パラリンピック」は「もう一つのオリンピック」という意味を持つ正式な名になった。

ローマの大会が変えたのは、障害のある体の見せ方だった。それまで、そうした体は、治す対象として病院の中に、あるいは守る対象として施設の中にあった。人前に出るとすれば、哀れみや施しを受ける姿としてだった。ローマの観客が見たのは、汗を流し、勝って喜び、負けて悔しがる、競う体だった。

ただし、それは新しい問題も生んだ。競える体、記録を出せる体だけが称えられ、そうでない障害のある人々がかえって見えにくくなるのではないか。選手が「障害を乗り越えた感動の物語」として語られ、消費されることへの批判も、いまに至るまで続いている。

それでも、この大会が、障害のある人々を社会の真ん中の舞台に立たせた最初の大きな機会だったことは確かである。障害のある人が社会の一員として当たり前に暮らす権利を求める運動は、その後各国で広がり、アメリカでは三十年後、障害を理由とする差別を禁じる法律が生まれた(障害を持つアメリカ人法)。グットマンが病院の芝生で始めた小さな競技会は、そうした流れの源の一つになった。

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