できごと

T4作戦

Aktion T4
AD1939年
重要度 4
大英帝国ソビエト連邦デンマークフランス領西アフリカアルジェリア(フランス領)ポルトガル帝国サウジアラビアイランリビアEmirate of Bin Shal'anエジプトスウェーデンノルウェードイツフィンランドフランススペインMesopotamia (GB)トルコポーランドMorocco (France)HejazルーマニアイタリアSyria (France)イギリスYugoslaviaアルメニアチュニジアギリシャハンガリーブルガリアCzechoslovakiaHailラトビアアイルランドSpanish SaharaリトアニアエストニアAD1939年ベルリン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1939年の版図を描いています(39勢力)。

概要

ナチス政権下のドイツで、障害のある人を「生きるに値しない命」と呼ぶ言葉が公然と使われるようになった。1939年、ヒトラーは医師と側近に、回復の見込みがないとされた患者に死を与える権限を与える書付を出し、日付を開戦の日に遡らせた。精神科病院から患者が灰色のバスで運ばれ、六つの施設のガス室で殺された。二年で七万人を超える。家族には偽の死亡通知が送られたが、隠しきれず、1941年にミュンスターの司教が説教で告発した。計画は表向き中止され、その後も別の形で続いた。ここで使われた方法と人員が、のちの絶滅収容所に引き継がれる。

場所

ベルリン
52.52°N 13.40°E · ドイツ

本文

「生きるに値しない命」という言い方は、ナチスが作ったものではない。1920年、ドイツの刑法学者カール・ビンディングと精神科医アルフレート・ホッヘが、『生きるに値しない命の抹殺の解禁』という小さな本を出した。治る見込みのない病人や重い知的障害のある人を、本人の同意なしに死なせることは許されるか、という問いを掲げ、許されると論じた本である。第一次世界大戦の敗北と飢えの記憶が生々しく、国の負担を誰が担うのかが語られていた時代だった。

そこへ、費用の計算が重ねられていく。1933年に政権を取ったナチスは、その年のうちに遺伝病の子孫を防ぐという名目の断種法を作り、戦争が始まるまでにおよそ40万人に不妊の手術を強いた。アメリカの州の断種法が先例として引かれた。学校の算数の教科書には、精神病の患者一人を一生養う費用で、健康な労働者の家族が何年暮らせるか、といった問題が載った。障害のある人の命を、帳簿の上の負担として数える考え方が、平時の教室から広められていた。

アルフレート・プレッツ
アルフレート・プレッツWikimedia Commons J.F. Lehmann (1864-1935), Munich, Galerie Hervorr. · Public domain

1939年10月、ヒトラーは総統の便箋に短い書付を書いて署名した。総統官房長のフィリップ・ボウラーと主治医のカール・ブラントに、指名した医師が、人間として判断しうるかぎり治る見込みがないとされた患者に「慈悲の死」を与えられるよう権限を広げる、という内容だった。日付は、第二次世界大戦が始まった9月1日にさかのぼらせてあった。戦時の非常措置であるかのように見せるためと考えられている。これは法律ではなかった。議会も裁判所も通らない、一枚の紙である。

計画は、本部のあったベルリンのティーアガルテン通り4番地にちなんで、戦後に「T4」と呼ばれるようになる。実務を担ったのは、偽名の団体を名乗る役所の外の組織だった。全国の精神科病院や障害者の施設に調査用紙が配られ、病名、入所の年数、働けるかどうか、面会に来る家族がいるかを書き込ませた。集まった用紙を、何人かの医師が読み、殺す者に印を付けた。医師たちは患者に一度も会わず、紙だけで生死を決めた。

Alfred Erich Hoche
Wikimedia Commons anonymous/unknown · Public domain

印を付けられた患者は、窓を塗りつぶした灰色のバスで迎えに来られた。行き先は、グラーフェネック、ブランデンブルク、ハルトハイム、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマーの6つの施設である。シャワー室に見せかけた部屋に入れられ、一酸化炭素のガスで殺された。遺体は施設の炉で焼かれた。家族には、肺炎や心臓の病で急に亡くなったという通知と遺灰が送られた。死因も日付も、多くは偽りだった。これと並んで、障害のある子どもを小児病棟で薬物や飢えによって殺す計画も、1939年から進められていた。

隠し通すことはできなかった。施設の煙突から煙が立ちのぼり、町の人々は臭いに気づいた。同じ町の家々に、同じ日付、同じ死因の通知が何通も届いた。盲腸をとっくに取ったはずの息子が盲腸炎で死んだという通知を受け取った家族もいたと伝えられる。噂が広がり、家族や裁判官、教会の関係者の中から問い合わせや抗議が出た。

ニュルンベルク綱領を導いた米軍事裁判の主要被告、カール・ブラント
ニュルンベルク綱領を導いた米軍事裁判の主要被告、カール・ブラントWikimedia Commons USHMM · Public domain

1941年8月3日、ミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・フォン・ガーレンが、説教壇から殺害を名指しで告発した。役に立たない者を殺してよいというなら、次は年老いた者、働けなくなった者、戦場で重い傷を負った兵士の番になる、と彼は語った。説教の写しはひそかに刷られて手から手へと回り、イギリス軍が空からまいたビラにも使われた。8月24日、ヒトラーはガス施設での殺害の中止を命じた。それまでに、T4の内部の集計だけで7万人を超える人が殺されていた。

だが、殺害は止まらなかった。中央の計画が表向き中止されたあとも、各地の病院や施設で、薬の過量投与や、わざと食事を減らして飢えさせる方法で、患者の殺害が戦争の終わりまで続いた。強制収容所の病気の囚人を選び出してガス施設へ送る作戦も行われた。占領したポーランドやソ連の地域でも、精神病院の患者が銃殺やガスで殺された。合わせた死者は20万人を超えるとされ、30万人とする推計もある。

T4で作られたものは、次の殺戮に引き継がれた。偽のシャワー室とガスで大勢を殺す方法、遺体を焼く炉、そしてそれを動かした人々である。T4の施設で働いた職員のうち100人ほどが、1942年からポーランドに作られたベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの絶滅収容所に送られ、所長や看守を務めた。障害のある人々を殺すために磨かれた手順が、ヨーロッパのユダヤ人を殺すホロコーストの手順になった。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

戦後、T4に関わった医師の一部は、ニュルンベルク裁判に続く医師裁判などで裁かれた。ブラントは死刑になり、ボウラーは終戦時に自殺していた。しかし多くの医師や看護師は罪に問われないまま、戦後も医療の仕事を続けた。殺された人々が犠牲者として正式に記憶されるまでには長い時間がかかり、ベルリンのティーアガルテン通りに追悼の場が整えられたのは2014年のことである。

障害のある人を費用で測る言葉は、戦争の中で突然生まれたのではない。平時の学術書と教科書に先に載っていた。断種から殺害までの道は一本道ではなく、断種を行ったどの国もがT4へ進んだわけではない。それでも両者は同じ問いの上に立っている。その命は支えるに値するか、という問いである。問いをその形で立てたこと自体が、恐ろしい答えを呼び込んだ。

同じ時代のできごと

バウハウスの創立1919年4月ILOの設立AD1919年10月29日五四運動AD1919年5月4日三・一独立運動AD1919年3月1日アムリトサル虐殺AD1919年4月13日ヴェルサイユ条約AD1919年6月28日セーブ・ザ・チルドレンと子どもの権利の宣言AD1919年5月19日体臭を売るAD1919年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1939年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →