障害を持つアメリカ人法
概要
車椅子で入れない店、点字のない案内、断られる採用。障害のある人が困るのは体のせいだと長く考えられてきた。この法律は、その見方をひっくり返した。困難は、段差や、字の大きさや、雇う側の思い込みという、社会の側の作りから生まれる。だから直すのは社会である。成立の三か月前、車椅子の人々が議事堂の階段を這って上る抗議を行い、その姿が報じられた。雇用、交通、店舗、通信について、合理的な配慮をしないことが差別だと定められた。障害を、個人の問題から社会の設計の問題へ移す考え方が、法の言葉になった。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
本文
車椅子に乗った人が、入口に段差のある店の前で立ち止まっている。この人は、なぜ店に入れないのか。答え方は二つある。一つは、その人の脚が動かないから入れない、という答えである。困難の原因はその人の体にあり、解決するには体を治すか、あきらめるしかない。もう一つは、店の入口に段差があるから入れない、という答えである。困難の原因は建物の作りにあり、解決するには段差をなくせばよい。
長いあいだ、社会は一つ目の答えを当然のものとしてきた。障害は個人の不幸であり、医療の対象であり、家族や慈善の手で世話されるべきものとされた。二十世紀の前半のアメリカでは、障害のある人を施設に閉じ込め、子を産めないように手術することまで、法律で認めていた州があった(断種法)。障害のある人が学校や職場や町から締め出されていても、それは差別ではなく、気の毒だが仕方のないことと見なされていた。

その見方を覆す動きは、障害のある人々自身から始まった。1960年代の初め、カリフォルニア大学バークレー校に、首から下がほとんど動かない学生エド・ロバーツが入学した。彼と仲間たちは、介助の人を自分で雇い、自分で暮らしを組み立てる試みを始め、1972年、そのための拠点を町に開いた。彼らは「自立」という言葉の意味を定義し直した。自立とは、何でも一人でできることではない。介助を使いながらでも、自分の暮らしを自分で決められることである、と。
1960年代の黒人の公民権運動(公民権法)も、障害のある人々に手本を示した。人種による差別が法で禁じられたのなら、障害による差別も禁じられるべきではないか。1973年、連邦の補助金を受ける事業で障害を理由に差別することを禁じる条文が法に入った。だが政府は、その条文を実際に使うための規則をなかなか出さなかった。1977年、障害のある人々は、全米各地の連邦政府の建物で座り込みを行った。サンフランシスコでは、百人を超える人々が建物を一か月近く占拠し続け、ついに規則を出させた。1970年代の終わりからは、車椅子で乗れないバスに抗議して、車椅子の人々がバスの前に立ちはだかり、道路をふさぐ運動も広がった。

こうした運動の中で、障害についての新しい考え方が育っていった。人を「障害者」にしているのは、体そのものよりも、段差や、小さすぎる文字や、手話の通訳のない窓口や、雇う側の思い込みといった、社会の側の作りである。この考え方は、のちに「障害の社会モデル」と呼ばれるようになる。
1980年代の終わり、障害による差別を広く禁じる法律の案が議会に出された。だが、企業の負担が重くなることを恐れる反対も強く、審議は難航した。1990年3月12日、首都ワシントンの議事堂の前に、障害のある人々が集まった。数十人が車椅子を降り、松葉杖を置き、議事堂の長い石の階段を、腕の力だけで一段ずつ這い上がり始めた。その中には、八歳の脳性まひの少女もいた。階段があれば、私たちはこうするしかない。その姿は写真や映像で全国に伝えられ、法案を後押しした。

1990年7月26日、ブッシュ大統領は、ホワイトハウスの庭で「障害を持つアメリカ人法」に署名した。雇用、公共のサービスと交通、店や劇場や病院など人が使う建物、そして電話などの通信。暮らしの主な場面のすべてで、障害を理由とする差別を禁じる法律である。
この法律の鍵になる考え方が、「合理的な配慮」である。たとえば雇用では、その仕事の大事な部分をこなせる人を、障害を理由に雇わないことを禁じる。そのうえで、雇う側は、机の高さを変えたり、画面の文字を読み上げる機械を用意したり、働く時間を調整したりと、障害のある人が働けるようにする手立てを、過大な負担にならない範囲で講じなければならない。それをしないこと自体が、差別にあたる。建物については、新しく建てるものは車椅子で使えるように造り、古い建物も、できる範囲で段差をなくすことが求められた。

法律ができてから、アメリカの町の姿は目に見えて変わった。歩道の角は斜めに削られ、バスには車椅子用の昇降機が付き、建物には傾斜路と広いトイレが設けられた。テレビには耳の聞こえない人のための字幕が付くようになった。もちろん、すべてが一夜で変わったわけではなく、法律の効き目を狭く解釈する判決が相次いだため、2008年には法律が改められている。
この考え方は、世界にも広がった。2006年、国連は障害者権利条約を採択した。障害は人と社会の壁との関わりの中で生まれるという考え方が、そこにははっきり書かれている。日本は2014年にこの条約を批准し、2016年には障害を理由とする差別をなくすための法律が施行された。初めは役所に合理的な配慮を義務づけ、民間の事業者には努力を求めるにとどまっていたが、2024年からは民間の事業者にも義務となった。

段差をなくして助かるのは、車椅子の人だけではない。ベビーカーを押す親、重い荷物を引く旅行者、歳をとって足腰の弱った人。障害のある人のために社会の作りを変えると、多くの人が暮らしやすくなる。誰もが使いやすいように初めから作ろうという考え方も、そこから育っていった。
明治の京都で、目の見えない子や耳の聞こえない子に教えるための学校が開かれたとき(京都盲唖院)、それは「この子たちには教えられない」という思い込みを覆した。それから百年あまり後、この法律は「この人たちは入れない、働けない」という思い込みを覆した。どちらも、変わるべきなのは人の側ではなく、仕組みの側だと言っている。ローマで車椅子の人々が競う姿を初めて人前に見せた大会(最初のパラリンピック)から三十年、障害のある人々は、競技場の外の暮らしの場でも、当たり前にそこにいる権利を法に書き込ませた(物語「障害の歴史」)。