ミンスミート作戦
概要
偽の作戦文書を持たせた遺体をスペインの沖に流し、ドイツに連合軍の上陸先をギリシャとサルデーニャだと信じ込ませた英国の欺瞞作戦。
場所
37.25°N -6.95°E · スペイン・アンダルシア州ウエルバ県
関わった人(2)
チャーチルAD1874年11月30日–AD1965年1月24日 · 作戦を承認した英首相ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 偽の文書を信じて兵を動かした本文
1943年の初め、北アフリカの戦いで優位に立った連合軍は、次にヨーロッパのどこへ上陸するかを決めなければならなかった。1月のカサブランカ会談で選ばれたのはシチリア島だった。地中海の真ん中にあり、北アフリカから近く、イタリア本土への足がかりになる。だが、近すぎて誰にでも読める。チャーチルは、よほどの馬鹿でなければシチリアだと分かる、と言ったと伝えられる。上陸先をドイツの目からそらすことが、作戦の成否を左右すると考えられた。
思いつきの種は開戦直後にあった。1939年9月、英海軍情報部長ジョン・ゴドフリーが、敵をだます案を並べた覚え書きを回した。のちに007の作者となる部下のイアン・フレミングの手が入っていたとされる。その28番目に、偽の書類を持たせた遺体を敵に拾わせる、という「あまり感心しない」案があった。1942年、情報将校のチャールズ・チャムリーがこれを練り直し、海軍情報部のユーエン・モンタギューとともに具体的な計画にした。

まず遺体が要った。ロンドンの検視官の手配で選ばれたのは、殺鼠剤を口にして死んだウェールズ出身の身寄りの無い男、グリンドゥール・マイケルだったと考えられている。海で数日漂った飛行機事故の犠牲者に見えれば、少量の毒は見破られないと判断された。二人はこの男に、英海兵隊のウィリアム・マーティン少佐という架空の人物を作り上げた。婚約者パムの写真(実は情報部の女性職員)、恋文、指輪の領収書、劇場の切符の半券など、生きていた人間らしい持ち物をポケットに詰めた。
肝心の偽文書は、帝国参謀本部次長のアーチボルド・ナイ中将から、北アフリカの連合軍を率いるハロルド・アレグザンダー大将にあてた私信の形をとった。上陸先はギリシャだと読める書きぶりで、シチリアは陽動にすぎないとほのめかし、サルデーニャへの作戦も匂わせた。正式な暗号電報ではなく私信にしたのは、わざわざ将校に運ばせる理由をつけるためだった。文書は鎖で手首につないだ鞄に入れた。カトリックの国では遺体のポケットを探るのをためらうかもしれない、と考えたからである。

遺体はドライアイスを詰めた容器に収められ、潜水艦セラフに積まれた。行き先は、ドイツの情報機関の手先が多く、潮の流れが岸へ向かうスペイン南部のウエルバの沖だった。1943年4月30日の未明、セラフは浮上し、艦長は詩編39を読み上げて遺体を海に流した。その朝のうちに地元の漁師が遺体を見つけた。スペインは中立を名乗っていたが、ドイツ寄りだった。書類の写しはドイツの情報機関の手に渡り、原本は封を開けた跡を残して英国に返された。
5月14日、英国がひそかに解読していたドイツの通信から、ドイツ側が上陸先はバルカン方面だと警告していることが分かった。ヒトラーは、シチリアこそ危ないというベニート・ムッソリーニの見方を退け、拾った文書がサルデーニャとペロポネソス半島への攻撃を示していると考えた。歴戦の第1装甲師団はフランスからギリシャへ移され、サルデーニャの兵力は6月末までに倍の1万人に増えた。7月下旬には、ロンメルまでがギリシャのテッサロニキへ送られた。
1943年7月9日から10日にかけて、連合軍はシチリアに上陸した。上陸の後もしばらく、ヒトラーはバルカンへの本当の攻撃が来ると信じていたとされる。作戦がどれほど効いたかを正確に測ることはできないが、シチリアは予想より早く連合軍のものになり、損害も見込みより少なかった。ヒトラーが7月13日にクルスクの戦いの攻勢を止めたのも、一つにはバルカンへの備えが要ると考えたためだったとする見方がある。

マーティン少佐はウエルバの墓地に葬られた。遺体の主の名は長く伏せられ、モンタギューは、ろくでなしだったが、死んだあとに一つだけ価値のあることをした、とだけ語った。グリンドゥール・マイケルの名を公文書から突き止めたのは、1996年のアマチュア歴史家だった。翌1997年、墓石には彼がマーティン少佐を務めたと書き添えられた。モンタギューが1953年に書いた手記(原題は「存在しなかった男」)は1956年に映画になり、2021年にも映画が作られている。