グライフ作戦
概要
バルジの戦いで、米軍の軍服を着たドイツ兵が連合軍の後方を乱そうとした作戦。目的は果たせなかったが、米軍に疑心暗鬼を広げた。
場所
50.25°N 5.67°E · ベルギー・ルクセンブルク・フランス
関わった人(1)
ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 作戦を発案し、スコルツェニーに命じた本文
1944年の秋、ノルマンディーに上陸した連合軍はドイツの国境に迫っていた。ヒトラーは形勢を一気に覆すため、アルデンヌの森から西へ攻め出て、港町アントワープを奪う大反攻を計画する。のちにバルジの戦いと呼ばれる戦いである。10月22日、ヒトラーは東プロイセンのラステンブルクの本営に、親衛隊のオットー・スコルツェニーを呼んだ。スコルツェニーは前年に幽閉されていたベニート・ムッソリーニを山上のホテルから救い出し、この10月にはハンガリーの摂政ホルティの息子を拉致して政権を降ろさせ、ヒトラーのお気に入りになっていた。
ヒトラーはスコルツェニーに、アーヘンの戦いで米軍が鹵獲したドイツの戦車を使ったと聞いた、同じことをやれ、と言った。米軍と英軍の軍服を着て、鹵獲した車両に乗った部隊を作り、連合軍が落とす前にムーズ川の橋を奪え。偽の命令を流し、連絡を乱せば、敵にどれほどの混乱を起こせるか考えてみよ、というのがヒトラーの構想だった。作戦は「グライフ」(伝説の怪物グリフォン)と名付けられた。

準備は5、6週間しかなかった。ドイツ軍の総司令部は全戦線に、英語と「アメリカの方言」を話せる兵を求める命令を出し、この命令はほどなく連合軍にも知られた。集まった兵のうち、完璧な英語と米国の言い回しを身に付けた者は10人ほどで、上手だが俗語を知らない者が30人から40人、残る大半はほとんど英語ができなかった。米軍の車両も足りず、シャーマン戦車は1両しか手に入らない。ドイツのパンター戦車に薄い鉄板をかぶせて米軍の駆逐戦車に見せかけ、ドイツの車両をオリーブ色に塗って白い星を描いた。予定の3300人に対して集まったのは2500人だった。敵の軍服を着て捕まればスパイとして処刑されうることは、スコルツェニーも承知していた。
12月16日に反攻が始まると、作戦はすぐに行き詰まった。先頭を行くはずの第1SS装甲師団が予定の地点まで進めず、2日のうちにムーズ川の橋を奪う望みは消えた。スコルツェニーは自分の旅団をふつうの部隊として使うことにし、旅団はマルメディを攻めたが、米軍に撃退された。
一方、英語の得意な兵を集めたシュティーラウ隊は、米軍の軍服とジープで前線を越えた。戦後のスコルツェニーの証言によれば、道標を逆に向け、米軍の一隊を説き伏せて撤退させ、一個連隊を間違った方向へ送ったという。米軍の姿で送り込まれたのは44人で、そのうち8人を除いて戻った。19日を最後に、奇襲の効き目が失われたとして送り込みは止められた。
作戦が本当に効いたのは、その後だった。ドイツ兵が米兵に化けていると知った米軍は、至るところで味方を疑い始めた。検問では州都の名や野球のことなど、アメリカ人なら知っているはずのことを尋ねた。ブルース・クラーク准将はシカゴ・カブスをアメリカン・リーグと答えて、しばらく銃を突きつけられた。ブラッドリー将軍も検問のたびに止められた。12月20日には、神経を尖らせた憲兵が味方の米兵2人を撃ち殺している。
最大の騒ぎは、12月17日にアイヴァイユの近くで捕まった3人組から始まった。合言葉を言えずに捕まった一人が、スコルツェニーはアイゼンハワー将軍とその幕僚を捕らえるつもりだと話したのである。スコルツェニーにはムッソリーニ救出の実績があったので、米軍はこの話を信じた。連合軍最高司令官のアイゼンハワーは警護のために閉じこもって1944年のクリスマスを過ごし、数日後には、誰に殺されようと構わない、と言って部屋を出たと伝えられる。橋は一つも奪えなかったが、捕まった兵の一言が、作戦の狙いだった混乱を本当に生んだことになる。
捕まった変装兵たちは軍事裁判にかけられ、12月23日から翌年1月にかけて十数人が銃殺された。スコルツェニー自身は戦後の1947年、ダッハウの裁判で、米軍の軍服を着て戦ったとして訴えられた。裁判所は、敵の軍服を着て戦闘することと、欺くために着ることを区別し、戦闘で着るよう命じた証拠はないとして全員を無罪にした。英国の特殊作戦部の元工作員が証人に立ち、自分たちも敵の後方でドイツ軍の軍服を着たと証言したことも知られている。第二次世界大戦の末期に行われたこの作戦は、戦時の欺瞞がどこまで許されるかを考える先例の一つとなった。