モニュメンツ・メン
概要
第二次世界大戦中、連合軍に置かれた美術品と文化財の保護部隊。ナチスが奪った美術品を探し出し、持ち主の国へ返した。
場所
47.61°N 13.78°E · オーストリア・シュタイアーマルク州
関わった人(1)
ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 美術品の収奪と総統美術館の計画を進めた本文
第二次世界大戦のヨーロッパでは、戦闘で教会や遺跡が壊されるだけでなく、ナチス・ドイツが占領地の美術館やユダヤ人の個人の収集から、組織的に美術品を奪っていた。ヒトラーは故郷に近いオーストリアのリンツに巨大な美術館を建てる構想を持ち、そのための作品を各地から集めさせていた。アメリカでは参戦の前から美術館や大学の専門家が危機を訴え、1943年6月23日、ルーズベルト大統領は戦地の美術品と歴史的建造物を守るための委員会を設けた。委員長の名から「ロバーツ委員会」と呼ばれる。
この委員会の働きかけで、連合軍の民政部門の中に「記念建造物・美術・文書部門」(略称MFAA)が置かれた。隊員の多くは美術史家、美術館の学芸員、建築家、文書館の専門家で、13か国から集まった人数は約350人とされる。彼らが「モニュメンツ・メン」と呼ばれた。女性の隊員もいた。パリでは、ナチスが奪った美術品の集積所にされたジュ・ド・ポーム美術館で、フランス人の学芸員ローズ・ヴァランが、運び出される作品と行き先をひそかに書き留め続けた。彼女の記録は、のちに隊員たちが隠し場所を突き止める手がかりの一つになった。

隊員は最前線の部隊とともに動いた。委員会は守るべき建造物の一覧を作って軍に渡し、イタリアのフィレンツェを攻めるときには、文化財の位置を書き込んだ航空写真を爆撃の操縦士に渡した。連合軍の総司令官アイゼンハワーは、文化的に重要な建物での略奪・破壊・宿営を禁じる命令を出した。戦いながら敵国の文化財の損害を減らそうとした軍隊は、これが初めてだったとされる。ピサでは砲撃の火事で墓所カンポサントの屋根の鉛が溶けて14世紀の壁画に流れ落ち、隊員が兵士や修復家とともに破片を拾い集め、仮の屋根をかけた。前線に近づきすぎて、アメリカとイギリスの隊員が1人ずつ戦死している。
1945年春、連合軍がドイツとオーストリアに入ると、隠されていた美術品の山が次々に見つかった。アメリカ軍がドイツだけで見つけた隠し場所は約1500か所にのぼる。メルカースの岩塩坑からはドイツ帝国銀行の金塊とベルリンの美術館の絵、バイエルンのノイシュヴァンシュタイン城からはフランスのユダヤ人から奪った6000点を超える品々、ベルンテローデの坑道からはフリードリヒ2世(大王)と父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の棺が出てきた。最大の宝庫は、オーストリアのアルタウスゼーの岩塩坑だった。ここには絵画だけで6500点を超える作品があり、ブルッヘの聖母教会から奪われたミケランジェロの聖母子像、ヘントの祭壇画、ヨハネス・フェルメールの「天文学者」と「絵画芸術」などが含まれていた。坑道を爆破して作品ごと埋める動きもあったが、作品は無事に運び出された。
見つかった作品は、ミュンヘン、ヴィースバーデンなどに設けられた中央集積所に集められた。ミュンヘンの集積所は、ヒトラーの執務室があったナチ党の建物を作り替えたものである。作品は一点ずつ記録・撮影され、持ち主の国に返された。オッフェンバッハの文書集積所では、奪われた数百万冊の本や、ユダヤ教の巻物などが仕分けられた。1945年11月、ヴィースバーデンの隊員たちは、ドイツの美術館の絵202点をアメリカへ移せという命令に対し、他国の遺産を戦利品として持ち去れば長く恨みを残すと訴える声明を出した(ヴィースバーデン宣言)。
戦争が終わってからも、約60人の隊員が6年ほどヨーロッパに残って作品を探し続けた。隊員の多くは帰国後、アメリカやヨーロッパの美術館の館長や学芸員として活躍した。いまも持ち主の分からない作品や行方不明の作品は残っており、ナチスが奪った美術品の返還は、ホロコーストの被害の回復とも結びついて続いている。2014年には隊員たちを描いた映画「ミケランジェロ・プロジェクト」(原題はモニュメンツ・メン)が公開された。