第442連隊戦闘団
概要
第二次世界大戦で日系アメリカ人二世の志願兵が編成した部隊。家族が収容所にいるなかヨーロッパで戦い、アメリカ陸軍で最も多くの勲章を受けた部隊の一つになった。
場所
31.19°N -89.20°E · アメリカ・ミシシッピ州
関わった人(1)
フランクリン・ローズヴェルトAD1882年1月30日–AD1945年4月12日 · 日系人の強制収容を命じた大統領令に署名本文
1941年12月の真珠湾攻撃は、アメリカに住む日系人の暮らしを一変させた。移民一世の子としてアメリカで生まれた二世は、アメリカの市民である。それでも開戦後、日系の男性は敵性外国人に分類され、徴兵の対象から外された。
1942年2月19日、大統領フランクリン・ローズヴェルトは大統領令9066号に署名した。日系人とは書かれていなかったが、この命令にもとづいて、西海岸に住む日系人11万人あまりが家を追われ、内陸の収容所に入れられた。その3分の2はアメリカで生まれた市民だった。一方ハワイでは、日系人が人口の大きな割合を占め、島の経済を支えていたため、大規模な収容は行われなかった。

ハワイの州兵には、日系の兵士が1300人あまりいた。軍は彼らを一つの大隊にまとめて本土へ送り、1942年6月、第100歩兵大隊とした。ハワイの言葉で穴を意味する語を使って「ワン・プカ・プカ」と呼ばれたこの大隊は、訓練で優れた成績をあげた。除隊させられたハワイの日系の大学生たちも、志願して軍の工事に汗を流した。こうした働きを見た陸軍省は、日系人による戦闘部隊を作ることを決めた。
1943年2月1日、第442連隊戦闘団が発足した。歩兵連隊に砲兵大隊と工兵中隊を加えた部隊で、兵士はほぼすべて日系二世の志願兵だった(将校には白人も多かった)。志願者は1万2000人を超え、ハワイから2686人、本土の収容所から1500人が選ばれ、4月にミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに集まって一年近い訓練を受けた。本土から来た兵士の多くは、家族を鉄条網の中に残していた。部隊の合言葉は「ゴー・フォー・ブローク」、すべてを賭けて当たって砕けろ、という博打の言葉だった。
先に戦場に出たのは第100大隊で、1943年9月からイタリアで戦い、多くの死傷者を出しながら進んだ。1944年6月、ローマの北で442連隊戦闘団と合流し、その一部となった。戦いぶりが認められて、第100大隊の名はそのまま残された。部隊はイタリアから南フランスへ移り、1944年10月、フランス東部のヴォージュの山中でブリュイエールの町を解放した。
その直後、テキサス州の部隊の一個大隊が山中でドイツ軍に囲まれ、「失われた大隊」と呼ばれた。救出を命じられた442部隊は、霧と雨の深い森で数日にわたって戦い、211人を助け出した。その代わりに、助けた人数をはるかに上回る死傷者を出した。
1945年、部隊の一部はイタリア戦線に戻り、ドイツ軍の防衛線を破る戦いに加わった。別に行動していた第522野戦砲兵大隊はドイツへ進み、ダッハウ強制収容所の支所の一つを解放し、死の行進の生き残りを救った。自分の家族が収容所にいる兵士が、ナチスの収容所の人々を解き放ったのである(ホロコースト)。

二年足らずのあいだに、第100大隊と第442連隊戦闘団の兵士は、戦傷者に贈られるパープルハート章を4000以上、ブロンズスター章を4000受け、部隊は大統領部隊感状を7回受けた。兵士の数と戦った期間に比べて、アメリカ陸軍の歴史で最も多くの勲章を受けた部隊とされる。のちに上院議員となるダニエル・イノウエも、この部隊の将校として戦い、右腕を失った。
1946年7月、大統領トルーマンはホワイトハウスで部隊を閲兵し、諸君は敵と戦っただけでなく偏見とも戦い、そして勝ったと述べた。部隊は同じ年に解かれた。
戦後も、日系人の名誉の回復には長い時間がかかった。1988年、アメリカ政府は強制収容について正式に謝罪し、生存者に補償金を支払うことを定めた。2000年には、人種の偏見のために低く扱われていた442部隊の兵士らの勲章が見直され、20人あまりに最高の勲章である名誉勲章が贈られた。2010年には部隊に議会名誉黄金勲章が、2012年には生存者にフランスのレジオン・ドヌール勲章が贈られている。