できごと

第442連隊戦闘団

442nd Regimental Combat Team
AD1943年2月1日 – 1946年
期間を持つできごと重要度 2
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国メキシココロンビアベネズエラDominion of NewfoundlandガイアナスリナムニカラグアホンジュラスキューバグアテマラパナマAD1943年2月1日キャンプ・シェルビー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1943年2月1日の版図を描いています(15勢力)。

概要

第二次世界大戦で日系アメリカ人二世の志願兵が編成した部隊。家族が収容所にいるなかヨーロッパで戦い、アメリカ陸軍で最も多くの勲章を受けた部隊の一つになった。

場所

キャンプ・シェルビー
31.19°N -89.20°E · アメリカ・ミシシッピ州

関わった人(1)

フランクリン・ローズヴェルトAD1882年1月30日–AD1945年4月12日 · 日系人の強制収容を命じた大統領令に署名

本文

1941年12月の真珠湾攻撃は、アメリカに住む日系人の暮らしを一変させた。移民一世の子としてアメリカで生まれた二世は、アメリカの市民である。それでも開戦後、日系の男性は敵性外国人に分類され、徴兵の対象から外された。

1942年2月19日、大統領フランクリン・ローズヴェルトは大統領令9066号に署名した。日系人とは書かれていなかったが、この命令にもとづいて、西海岸に住む日系人11万人あまりが家を追われ、内陸の収容所に入れられた。その3分の2はアメリカで生まれた市民だった。一方ハワイでは、日系人が人口の大きな割合を占め、島の経済を支えていたため、大規模な収容は行われなかった。

フランクリン・ルーズベルト米大統領の肖像(1944年)
フランクリン・ローズヴェルトWikimedia Commons Leon Perskie · CC BY 2.0

ハワイの州兵には、日系の兵士が1300人あまりいた。軍は彼らを一つの大隊にまとめて本土へ送り、1942年6月、第100歩兵大隊とした。ハワイの言葉で穴を意味する語を使って「ワン・プカ・プカ」と呼ばれたこの大隊は、訓練で優れた成績をあげた。除隊させられたハワイの日系の大学生たちも、志願して軍の工事に汗を流した。こうした働きを見た陸軍省は、日系人による戦闘部隊を作ることを決めた。

1943年2月1日、第442連隊戦闘団が発足した。歩兵連隊に砲兵大隊と工兵中隊を加えた部隊で、兵士はほぼすべて日系二世の志願兵だった(将校には白人も多かった)。志願者は1万2000人を超え、ハワイから2686人、本土の収容所から1500人が選ばれ、4月にミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに集まって一年近い訓練を受けた。本土から来た兵士の多くは、家族を鉄条網の中に残していた。部隊の合言葉は「ゴー・フォー・ブローク」、すべてを賭けて当たって砕けろ、という博打の言葉だった。

先に戦場に出たのは第100大隊で、1943年9月からイタリアで戦い、多くの死傷者を出しながら進んだ。1944年6月、ローマの北で442連隊戦闘団と合流し、その一部となった。戦いぶりが認められて、第100大隊の名はそのまま残された。部隊はイタリアから南フランスへ移り、1944年10月、フランス東部のヴォージュの山中でブリュイエールの町を解放した。

その直後、テキサス州の部隊の一個大隊が山中でドイツ軍に囲まれ、「失われた大隊」と呼ばれた。救出を命じられた442部隊は、霧と雨の深い森で数日にわたって戦い、211人を助け出した。その代わりに、助けた人数をはるかに上回る死傷者を出した。

1945年、部隊の一部はイタリア戦線に戻り、ドイツ軍の防衛線を破る戦いに加わった。別に行動していた第522野戦砲兵大隊はドイツへ進み、ダッハウ強制収容所の支所の一つを解放し、死の行進の生き残りを救った。自分の家族が収容所にいる兵士が、ナチスの収容所の人々を解き放ったのである(ホロコースト)。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

二年足らずのあいだに、第100大隊と第442連隊戦闘団の兵士は、戦傷者に贈られるパープルハート章を4000以上、ブロンズスター章を4000受け、部隊は大統領部隊感状を7回受けた。兵士の数と戦った期間に比べて、アメリカ陸軍の歴史で最も多くの勲章を受けた部隊とされる。のちに上院議員となるダニエル・イノウエも、この部隊の将校として戦い、右腕を失った。

1946年7月、大統領トルーマンはホワイトハウスで部隊を閲兵し、諸君は敵と戦っただけでなく偏見とも戦い、そして勝ったと述べた。部隊は同じ年に解かれた。

戦後も、日系人の名誉の回復には長い時間がかかった。1988年、アメリカ政府は強制収容について正式に謝罪し、生存者に補償金を支払うことを定めた。2000年には、人種の偏見のために低く扱われていた442部隊の兵士らの勲章が見直され、20人あまりに最高の勲章である名誉勲章が贈られた。2010年には部隊に議会名誉黄金勲章が、2012年には生存者にフランスのレジオン・ドヌール勲章が贈られている。

動画(1)

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