コウモリ爆弾の開発
概要
小さな焼夷弾を付けたコウモリを日本の都市にまく米国の秘密兵器。試験で飛行場を焼いたのち中止された。
場所
32.26°N -104.23°E · アメリカ合衆国・ニューメキシコ州カールズバッド
関わった人(1)
フランクリン・ローズヴェルトAD1882年1月30日–AD1945年4月12日 · 計画を承認した大統領本文
1942年1月、真珠湾攻撃から1か月あまりたったころ、ペンシルベニア州の歯科医ライトル・S・アダムズがホワイトハウスに手紙を送った。ニューメキシコ州のカールズバッド洞窟を訪れ、無数のコウモリが飛び立つのを見て思いついた案だった。コウモリに小さな焼夷弾を付けて日本の都市にまけば、コウモリは夜明け前に軒下や屋根裏に入り込んで休む。日本の家の多くは木と紙でできているから、時間がたって焼夷弾が火を吹けば、あちこちで同時に火事が起きる、というのである。
アダムズは大統領夫人エレノアと面識があった。フランクリン・ローズヴェルトは手紙を情報機関の長ドノバンに回し、「この男はおかしな人間ではない。突拍子もない案に聞こえるが、調べてみる価値はある」と添えたと伝えられる。コウモリの研究者ドナルド・グリフィンの助言もあって、大統領は計画を承認した。開発はまず陸軍航空軍の下で始まった。

選ばれたのは、アメリカ南西部の洞窟に大群で住むメキシコオヒキコウモリである。一つの洞窟から数十万匹が飛び立つこともあり、数をそろえやすかった。体重14グラムほどのコウモリが、15〜18グラムの荷を運べることが試験で確かめられた。焼夷剤には、ハーヴァード大学の化学者ルイス・フィーザーが発明したばかりのナパームが使われた。セルロースの小さな容器に詰めて、接着剤でコウモリの胸に貼り付ける。爆弾の形をした長さ約1.5メートルの筒に、冬眠させたコウモリを千匹あまり入れ、高空から落とす。途中でパラシュートが開き、筒の側面が外れて、目を覚ましたコウモリが散っていく仕組みだった。筒の中には直径76センチほどの円い棚が26段重ねてあり、一つの筒に1040匹を収める計算だった。高度1200メートルほどまで落ちたところでパラシュートを開く設計である。
試験はうまくいかないことが多かった。冷やしすぎたコウモリが目を覚まさず、そのまま石のように地面に落ちたこともあった。1943年5月15日には、カールズバッド陸軍飛行場の補助飛行場で、焼夷弾を付けたコウモリが誤って逃げ出した。コウモリは燃料タンクの下などに入り込み、火を吹いて、試験場を焼き払ってしまった。
この失敗のあと、計画は1943年8月に海軍へ移され、「X線計画」と名づけられた。さらに海兵隊が引き継ぎ、ユタ州のダグウェイ実験場に作られた日本風の家並みの模型で試験が行われた。結果は良好で、立会人は、同じ重さの通常の焼夷弾よりもずっと多くの火事を起こせると報告している。化学者の報告では、通常の焼夷弾を積んだ場合に1回の爆撃で起こせる火事が167〜400か所なのに対し、コウモリ爆弾なら3625〜4748か所とされた。小さすぎて家の人にも火の見張りにも気づかれず、火が回ってから見つかるのが利点だと書かれている。
それでも計画は1944年、海軍のアーネスト・キング提督によって打ち切られた。実戦に使えるのは早くても1945年半ばになると見込まれたためである。それまでに約200万ドルが費やされていた。日本の都市はその後、通常の焼夷弾による東京大空襲などで焼かれ、戦争はマンハッタン計画が生んだ原爆で終わった。アダムズは戦後も、コウモリ爆弾なら原爆ほど多くの命を奪わずに済んだと主張し続けた。一方、初期の検討に関わった情報機関の研究責任者スタンレー・ロヴェルは、この計画を「こうもり喜劇」と呼んで振り返っている。

動物を兵器にしようとする試みは、ほかにもハトに爆弾を誘導させる計画などがあった。コウモリ爆弾は、総力戦のさなかに、あらゆる思いつきが真剣に試された時代の産物である。その陰で、何百万匹ものコウモリを犠牲にすることを疑問に思う者はいなかったと、関わった研究者の一人は後に振り返っている。