人物

ウッドロウ・ウィルソン

Woodrow Wilson
AD1856年12月28日 – AD1924年2月3日(享年67)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

プリンストンの学長。「戦争に行かなかった」で再選し、翌月参戦した。十四か条。パリ講和会議に自分で行った。国際連盟。上院が拒み、全国を演説して回って脳卒中で倒れた。妻が1年半、代わりに執務した。南部の生まれで、連邦の役所を人種で分けた。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

十四か条の平和原則AD1918年1月8日 · 大統領

本文

1856年12月28日、ヴァージニア州ストーントンで、長老派の牧師の家に生まれた。本名はトマス・ウッドロウ・ウィルソン。一家はまもなくジョージア州オーガスタに移り、彼はそこで南北戦争を子どもの目で見た。いちばん古い記憶は、リンカーンが選ばれたので戦争になる、と誰かが話すのを聞いたことだった、と後に語っている。父の教会は負傷した南軍の兵士の病院になった。字が読めるようになったのは遅く、10歳を過ぎてからだったとされる。

ウッドロウ・ウィルソン大統領
ウッドロウ・ウィルソン大統領Wikimedia Commons Harris & Ewing, photographer · Public domain

プリンストン大学を出て弁護士になったが、すぐにやめてジョンズ・ホプキンス大学で政治学の博士号を取った。博士論文の『議会政治』は、議会の委員会が実権を握るアメリカの政治を、イギリスの議院内閣制と比べて批判したもので、評判を呼んだ。プリンストンの教授を経て1902年に学長となり、大学の改革に取り組んだ。しかし大学院の置き場所をめぐる争いに敗れ、1910年、民主党に担がれてニュージャージー州知事に転じた。知事として汚職の一掃や改革の法律を次々に通し、全国に名を知られた。

1912年の大統領選挙では、共和党が現職のタフトと前大統領セオドア・ローズヴェルトに割れたため、ウィルソンが勝った。南北戦争後、南部出身で初めての大統領である。「新しい自由」を掲げ、関税を下げ、所得税を導入し、1913年には中央銀行にあたる連邦準備制度を作り、大企業の独占を取り締まる法律を整えた。

イーディス・ウィルソン夫人(右)と
イーディス・ウィルソン夫人(右)とWikimedia Commons Harris & Ewing · Public domain

一方で、彼は南部の白人の人種観をそのまま政権に持ち込んだ。閣僚たちが連邦政府の役所で黒人と白人の職員を分けることを認め、黒人の公務員の多くが職を失い、降格された。1915年、クー・クラックス・クランを英雄として描いた映画『國民の創生』がホワイトハウスで上映され、映画の字幕にはウィルソン自身の歴史書の一節が引かれた。1914年には最初の妻エレンを病で失い、翌年イーディス・ゴールトと再婚した。

1914年8月、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まると、彼は中立を宣言した。1915年、イギリスの客船がドイツの潜水艦に沈められ、乗っていたアメリカ人128人が死んでも(ルシタニア号の撃沈)、参戦はしなかった。1916年、「彼は私たちを戦争から遠ざけた」という標語で再選された。しかし1917年、ドイツが無制限の潜水艦作戦を再開し、メキシコに対米参戦を持ちかける電報が明るみに出ると(ツィンメルマン電報)、彼は4月2日、議会に参戦を求めた。世界は民主主義にとって安全な場所にされなければならない、という演説の一句は、彼の外交の旗印になった。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1918年1月8日、議会で戦後の平和の原則を示した(十四か条の平和原則)。秘密外交の廃止、航海の自由、軍備の縮小、民族の自決に配慮した国境の引き直し、そして国々の連合である。11月に休戦が成ると、彼は12月、大統領として初めて在任中にヨーロッパへ渡った。パリ、ロンドン、ローマで、彼は救い主のような熱狂で迎えられた。

1919年のパリ講和会議で、彼はフランスのクレマンソー、イギリスのロイド・ジョージ、イタリアのオルランドと渡り合った。ドイツへの懲罰を求める英仏に押され、彼の原則の多くは崩れた。国際連盟の規約を講和条約に組み込むことを最優先し、そのために多くを譲った。山東半島のドイツの権益は日本に渡され、中国では五四運動が起きた。日本が求めた人種平等の条文は、彼が議長として全会一致を条件にしたことで退けられた。6月28日、ヴェルサイユ宮殿で条約が調印された(ヴェルサイユ条約)。

五四運動に関わる図版:Chinese protestors march against the Treaty of Versailles (May 4, 1919)
五四運動Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

国に戻ると、上院の共和党を率いるロッジが、連盟の規約がアメリカの主権を縛るとして、留保の条件をつけるよう求めた。ウィルソンは一歩も譲らず、国民に直接訴えるため、9月から列車で全国を回った。3週間あまりで約40回の演説をしたあと、コロラド州プエブロで倒れ、10月2日、ホワイトハウスで脳卒中を起こして左半身が麻痺した。病状は国民に伏せられ、妻イーディスが、誰を夫に会わせ、どの書類を見せるかを選んだ。彼女は後に、自分は何ひとつ決めていない、何を彼に見せるかを決めただけだと書いたが、事実上の代行だったと見る歴史家は多い。1920年3月、上院は条約を否決し、アメリカは自らが提唱した国際連盟(国際連盟の発足)に加わらなかった。

1919年度のノーベル平和賞を受けたのは、その翌年のことである。1921年に任期を終えると、ワシントンの家で静かに暮らし、1924年2月3日に67歳で亡くなった。

エレン・ルイーズ夫人
エレン・ルイーズ夫人Wikimedia Commons PRES FILE; published c1912 Oct. 1. (J173724-28 U.S. Copyright Office) · Public domain

彼の理想は、講和会議の取引と、上院の反対と、妥協を拒んだ彼自身の頑なさの前に崩れた。それでも、国々が集まって戦争を防ぐという考えは、第二次世界大戦の後に国際連合の成立として形を取り直した。民族自決という言葉は、ヨーロッパの外の植民地の人々にも希望を与えた。その一方で、人種隔離を進めた大統領としての姿も、近年あらためて問われている。2020年、プリンストン大学は公共政策の大学院などから彼の名を外した。

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