岩殿山城
概要
甲斐東部の郡内にそびえる岩山の城。1582年、武田勝頼はここを目指したが、小山田信茂の離反で入れず滅んだ。
場所
35.62°N 138.95°E · 日本・山梨県大月市
関わった人(3)
武田勝頼AD1546年–AD1582年4月3日 · 岩殿山城へ逃れようとして入れず、天目山で自害した織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 甲斐へ攻め込み武田氏を滅ぼした徳川家康AD1543年–AD1616年 · 織田方として甲斐へ攻め込み、のちに甲斐を領した本文
岩殿山城は、いまの山梨県大月市にあった山城である。標高634メートルの岩殿山をそのまま城にしたもので、山頂の南側には鏡岩と呼ばれる高さ約150メートルの礫岩の崖がむき出しになり、その下はさらに急な斜面で桂川へ落ちている。北側も急で、東西から近づく道はどちらも細い尾根道しかない。戦国時代の東国でも屈指の堅い城として知られた。
城が置かれたのは、甲府盆地から東へ山を越えた郡内(ぐんない)と呼ばれる土地である。甲州街道が通り、相模・武蔵へ抜ける道が交わる大月は、甲斐の国の東の玄関口だった。郡内を治めていたのは国衆の小山田氏で、はじめは甲斐守護の武田氏と争ったが、永正6年(1509年)に敗れて武田の傘下に入った。その後、武田信玄が相模の後北条氏や駿河の今川氏と争うようになると、郡内は国境の守りの要となり、岩殿山城もその役を担ったと考えられている。

築かれた時期ははっきりしない。江戸時代後期の地誌『甲斐国志』は、小山田氏の本拠である谷村館(いまの都留市)の詰めの城だとする。一方で、谷村から離れすぎているとして、武田氏が相模との境に置いた城だとみる説もある。天正9年(1581年)に武田勝頼がこの城へ番手の兵を送っていたことも知られており、小山田氏の城か武田氏の城かは議論が続いている。山上は岩が多く、曲輪も通路も狭い。大きな建物を置く余地はなく、地形そのものを守りにした城だった。
この城の名が歴史に残ったのは、武田氏の最期と結びついているからである。天正10年(1582年)2月、織田信長と徳川家康は武田領へ攻め込んだ。木曾義昌の離反をきっかけに信濃の武田方は総崩れになり、勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城も落ちた。勝頼は築きかけの新府城(いまの韮崎市)に火を放って捨て、3月3日に東へ逃れた。『甲陽軍鑑』によれば、このとき嫡男の信勝は新府での籠城を、信濃の真田昌幸は上野の岩櫃城への退避を説いたが、側近の長坂光堅が小山田信茂を頼って岩殿山城へ移ることを勧めたという。ただし別の軍記『甲乱記』はこのやりとりを記さず、勝頼が信茂に郡内への退避を相談したとだけ書く。

武田勝頼の一行は郡内へ向かったが、入口で道をふさがれた。信茂が勝頼を見限ったのである。離反の場面は史料によって違う。『甲陽軍鑑』は、勝頼が鶴瀬で7日ほど信茂の迎えを待っていたところ、3月9日の夜に信茂が郡内への道を封じ、人質を密かに引き取ったうえで鉄砲を撃ちかけたと記す。『理慶尼記』は道を封じた場所を笹子峠とし、『信長公記』は勝頼の使者を信茂がはねつけたと短く書くだけである。いずれにしても、勝頼は難攻不落といわれた城に一歩も入れなかった。
行き場を失った勝頼は、わずかな兵とともに天目山のふもとの田野(いまの甲州市)へ向かい、3月11日、織田方の滝川一益の軍勢に追いつかれて信勝らとともに自害した。武田宗家はここで滅んだ。信茂は織田方に降ろうとしたが、甲斐善光寺で信長の嫡男・信忠に、長年の主君を裏切った不忠をとがめられて処刑されたと伝えられる。郡内の小山田氏もこうして絶えた。
信茂の離反は、後世「裏切り」として語られてきた。しかし、郡内の国衆である小山田氏にとって、すでに崩れかけた武田家と運命を共にすることは、自分の領地と家臣を織田の大軍の前にさらすことでもあった。国衆は大名の家来であると同時に、自分の領地を守る独立した領主でもあった。信茂の選択は、戦国の主従がどれほど危ういつながりの上にあったかをよく示している。
武田の滅亡からわずか3か月後、本能寺の変で信長と信忠が死ぬと、甲斐と信濃の武田旧領をめぐって徳川・北条・上杉が争った(天正壬午の乱)。郡内では土豪や百姓が蜂起して織田方の役人を追い出し、相模から入った北条方が岩殿山城を押さえた。やがて徳川と北条が和を結ぶと、甲斐は家康のものとなった。江戸時代に入っても、幕府は非常のときに将軍が甲府へ退くことを想定していたといわれ、岩殿山城は要害としての意味を保った。

いまの岩殿山は大月駅から歩いて1時間ほどで頂上に着く。山頂からは富士山が見え、城跡は山梨県の史跡に指定されている。1972年には山の南側で大規模な地滑りが起き、ふもとを通る中央自動車道が123日間通行止めになったこともある。岩の崖に守られた城が、戦わずに主を見捨てたという皮肉は、いまも山の姿とともに語り継がれている。