江戸時代の仇討ち
概要
親や兄、主君を殺された者が届け出て許しを得たうえで相手を討つ制度。江戸時代に形が整い、1873年に禁じられた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
仇討ち(敵討)は、主君や父母、兄など目上の身内を殺された者が、その相手を自分の手で討つことである。中世の武士のあいだで慣行として広まり、江戸時代には幕府や藩の手続きの中に組み込まれて、公に認められたものになった。
史料に残る最も古い例は、『日本書紀』が伝える456年の眉輪王の事件とされる。父を殺した安康天皇を刺した眉輪王は、皇位を狙ったのではない、ただ父の仇に報いただけだ、と答えたという。鎌倉時代には、1193年に源頼朝の富士の巻狩の場で曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討った。ただ、この時代の法は仇討ちに厳しく、弟の曾我時致は捕らえられて斬首された。1232年の御成敗式目は、子や孫が父祖の仇を討てば、知らなかった父祖まで罰すると定めている。
江戸時代には考え方が変わる。殺人の加害者は本来、幕府や藩が裁く。しかし加害者が逃げて行方が知れず、公の手で罰せないときは、被害者の身内にその処罰をゆだねる、という形で仇討ちが認められた。討ってよいのは父母や兄など目上の者の仇に限られ、妻子や弟妹のための仇討ちは原則として認められなかった。武士の場合は主君から免状を受け、他国へ出るときは奉行所へ届け出る。届けは江戸の町奉行所の敵討帳に記され、討手はその写しを受け取った。届けのないまま討てば、現地の役人が調べ、仇討ちと認められなければ殺人として罰せられた。
討たれた側の身内がさらに仕返しをする重敵討(またがたきうち)は禁じられていた。一方で、狙われた側が迎え撃つことは正当な防衛として認められ、討手が逆に殺されれば返り討ちと呼ばれた。武家の当主が殺されたときは、跡継ぎが仇を討たなければ家を継がせない、という慣習も広く見られた。仇討ちは復讐の感情を晴らすことより、武士の面目を保つことに重きがあった。
実際の仇討ちは長く苦しい旅だった。相手がどこにいるか分からないまま諸国を探し歩き、41年かけて仇を討った久米幸太郎や、母の仇を53年目に討ったとませの例がある。13歳の少女が姉とともに仇を討った例もあった。成功したのはわずか数パーセントだったといわれる。討手はたいてい1人か2人で、そこに助太刀が加わることもあった。47人で討ち入った赤穂浪士は、きわめて異例だった。身分の上では武士のための制度だったが、町人や農民が討つこともあり、手続きを欠いていても多くは大目に見られ、孝行の行いとしてむしろ褒められた。
江戸時代の人々は、曾我兄弟の仇討ち、荒木又右衛門が助太刀した1634年の鍵屋の辻の決闘、そして1702年の赤穂事件を三大仇討ちと呼んでもてはやした。もっとも、赤穂浪士の討ち入りは家臣が主君の恨みを晴らしたもので、仇討ちとみるか、ただの復讐とみるかは当時から議論があった。浄瑠璃や歌舞伎には仇討狂言という分野ができ、『仮名手本忠臣蔵』の初演や曾我ものが繰り返し上演された。
妻が密通したとき、夫が妻と相手を討つことは女敵討(めがたきうち)と呼ばれた。江戸町奉行所の記録では、ふつうの仇討ちが元禄のころを過ぎると減るのに対し、女敵討は宝永以降に増え、享保年間には届け出のあった仇討ちの半数を占めたという。武士にとって密通が表沙汰になれば討つのが務めだったが、果たしても名誉にはならないため、内々に示談ですませることも多かった。庶民の場合も、こうした殺害は殺人の罪に問われなかった。
明治に入ると、司法卿の江藤新平らが近代の司法制度を整える中で、1873年2月7日に太政官布告第37号、いわゆる敵討禁止令が出され、仇討ちは禁じられた。それでも1880年には、元秋月藩士の臼井六郎が東京で父母の仇を討つ事件が起き、最後の仇討ちと呼ばれた。臼井は殺人罪で裁かれ、終身刑を言い渡された。仇を討つことが義務から罪に変わったことを、はっきりと示す事件だった。