ラゴスとベニン湾の交易
概要
「奴隷海岸」と呼ばれた一帯の積出港のひとつ。銃と引き換えに人が売られ、その銃でまた人が獲られるという循環が内陸で回った。
場所
6.52°N 3.38°E · ナイジェリア
本文
ナイジェリア最大の都市ラゴスは、ギニア湾の奥、潟湖(ラグーン)に浮かぶ島と砂州の上に生まれた町だ。もとはヨルバの人々の漁村で、エコと呼ばれていた。ラゴスという名は、15世紀に沿岸を訪れたポルトガル人が付けたもので、ポルトガル語で「湖」を意味する。町の王家は、東のベニン王国の青銅器で知られるベニン王国から来た者の血を引くと伝えられ、長くベニンに貢ぎ物を納めていた。
いまのガーナの東からナイジェリアの西にかけてのベニン湾の海岸は、17世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの商人たちから「奴隷海岸」と呼ばれた。金を産する西隣の「黄金海岸」、象牙の「象牙海岸」と並ぶ呼び名で、ここで最も多く取引された「品物」が人間だったことを示している。大西洋奴隷貿易で、ベニン湾から大西洋の向こうへ運ばれた人は、200万人ほどと推計されている。

海岸には、ウィダ、ポルト・ノボ、バダグリ、そしてラゴスといった積出港が並んだ。ヨーロッパの商人は、自分で内陸に入って人を捕らえたわけではない。海岸の港には、アフリカの王や商人が内陸から連れてきた人々を売り、ヨーロッパ人は布、鉄の棒、酒、子安貝の貝貨、そして銃と火薬で支払った。
この取引は、内陸で一つの循環を回した。銃を手に入れた勢力は、その力で周りの集団を襲い、戦争の捕虜を作る。捕虜を海岸で売れば、また銃が買える。銃を持たない集団は、捕らえられる側に回る。だから身を守るためにも、どの勢力も銃を欲しがった。この「銃と奴隷の循環」がどこまで実際に働いたのかについては、銃の性能や数を根拠に慎重な見方を示す研究者もいるが、奴隷を売ることで武力を手に入れる仕組みが、地域の争いを激しくしたことは確かだ。
この交易で力を伸ばした国が、内陸のオヨ王国の騎兵で知られるオヨ王国と、その西南の海寄りにあったダホメ王国だった。ダホメはやがてウィダの港を直接押さえ、奴隷の取引を王が管理した。女性の兵士の部隊(ダホメの女性部隊)を持つことで知られる軍は、毎年のように周辺へ遠征して捕虜を連れ帰った。

失われたものは大きかった。若い男女が何世代にもわたって連れ去られた結果、西アフリカの一部では人口の伸びが数世紀にわたって止まり、減った地域さえあったという推計がある。働き手の喪失と絶えない戦争は、農業や手工業の発展をも妨げた。
ラゴスが奴隷港として大きく伸びたのは、18世紀の終わりから19世紀の前半にかけてのことだ。オヨ王国が19世紀の初めに崩れ、ヨルバの地で長い内戦が始まると、その戦争で捕らえられた人々がラゴスへ送られた。運ばれた先の多くはブラジルとキューバだった。いまブラジルのバイーアにヨルバの神々を祀る信仰が根づいているのは、このとき海を渡った人々が持ち込んだものだ。

1807年、イギリスは自国民による奴隷貿易を禁止した。翌年にはアメリカも奴隷の輸入を禁じた。イギリスは海軍に西アフリカの沖を見張らせ、奴隷を積んだ船を捕まえて、乗せられていた人々を西アフリカのシエラレオネで解放した。だが、ブラジルやキューバの需要は続き、ポルトガルやスペインの旗を掲げた船が、取り締まりの目をかいくぐって人を運び続けた。ラゴスは、取り締まりの時代にむしろ栄えた奴隷港の一つだった。
1851年12月、イギリス海軍はラゴスを砲撃した。奴隷貿易をやめようとしない王コソコを追い出し、イギリスに協力的な前の王アキトイェを復位させた。奴隷交易の停止が名目だった。だが、そこで終わらなかった。ラゴスの交易と政治にイギリスの領事が深く口を出すようになり、10年後の1861年、イギリスは王に割譲の条約を結ばせて、ラゴスを植民地にした。取り締まりが、支配の入口になった。

ラゴスはその後、ヤシ油などの「正当な交易」の港として発展し、イギリスはそこから内陸へ支配を広げていく。1914年には南北の保護領を合わせてナイジェリアが作られ、ラゴスはその首都になった。シエラレオネやブラジルから戻ってきた解放奴隷とその子孫も、ラゴスに住みついて、商人や教師、聖職者として町の近代化を担った。1960年の独立後も1991年までナイジェリアの首都であり続け、いまではアフリカで最大級の大都市になっている。奴隷を積み出した港が、国の顔になった。