ハラールの城壁都市
概要
キリスト教のエチオピア高原の只中にあるイスラームの都市。80を超えるモスクが城壁の内側にひしめく。コーヒーが飲み物として広まる道はここを通った。
場所
9.31°N 42.13°E · エチオピア
本文
エチオピアの高原は、4世紀のアクスムのキリスト教化以来、キリスト教の王国の土地だった。その東の端、高原がソマリの低地へ下りていく縁に、イスラームの城壁都市ハラールがある。
紅海とアデン湾の港から内陸へ向かう隊商の道が、ここを通った。海から上がってきた塩や布と、高原の奴隷や象牙、金、そして近くの山で採れる産物が、この町で取り引きされた。イスラームは早くからこの交易路に沿って広まり、高原の東と南には、いくつものムスリムの国が並んでいた。そのうちアダルの国が、16世紀の初めに都をハラールに移す。

この町を拠点にしたのがアフマド・グラーニュだった。アダルの軍を率いた彼は、1529年からエチオピア高原へ攻め込み、キリスト教の王の軍を破って、10年あまりのあいだ高原の大半を制圧した(アフマド・グラーニュのエチオピア侵攻)。教会や修道院が焼かれ、エチオピア側の記憶に深い傷を残した。ポルトガルの鉄砲隊の支援を受けたエチオピアの王が押し返し、1543年、アフマドは戦死する。
いまの城壁は、その後に築かれた。アフマドの後を継いだ支配者が、高原から反撃してくる王の軍や、南から移動してきたオロモの人々に備えて、町をぐるりと囲んだ。高さ4メートルほどの壁に、もとは五つの門が開いていた。

城壁の内側は、世界遺産の登録では約48ヘクタールしかない。東京ドーム10個ほどの広さに、80を超えるモスクと、100を超える聖者の廟が詰まっている。細い路地が迷路のように折れ曲がり、白や色鮮やかに塗られた家が並ぶ。家の中の一段高い座敷の壁には、籠や皿が飾られる。この独特の家の造りも、町の顔になっている。
メッカ、メディナ、エルサレムに次ぐ「イスラームの第四の聖都」と呼ばれることがある。これは公式の序列ではなく、聖者の廟の多さと、学問の中心として果たした役割から生まれた呼び方とされる。

町の人々は独自の言葉、ハラリ語を話す。エチオピアのセム系の言葉の一つで、アラビア文字で書かれてきた。話者は数万人ほどとされる。
ハラールの首長たちは、自分たちの銅貨を鋳造していた。町の商人はアデン湾の港やアラビアと結ばれ、学者たちはアラビア語で法学や神学を学び、イスラームの書物を写した。町は信仰と学問と商売の中心として、高原のキリスト教の王国と向き合い続けた。

17世紀の半ばから、ハラールは首長の治める小さな国になった。19世紀に入っても外の者を寄せつけず、ヨーロッパ人で初めて入ったのは、1855年、ムスリムに変装して入ったイギリスの探検家リチャード・バートンだったとされる。1875年からはエジプトに占領され、1887年、エチオピアのメネリク2世の軍に征服された。高原のキリスト教の帝国に組み込まれ、帝国の東の拠点になる。この頃、フランスの詩人ランボーが詩を捨て、商人としてこの町で暮らしていた。
征服のあと、ハラールの総督に任じられたのはメネリクのいとこにあたるマコンネンだった。その子タファリは、1892年にハラールの近くで生まれ、のちに皇帝ハイレ・セラシエ1世となる。イスラームの聖都は、エチオピア最後の皇帝のふるさとでもあった。2006年、城壁に囲まれた旧市街は世界遺産に登録された。

コーヒーの木の原産地は、エチオピアの高原とされる。ハラール周辺はいまも名の通ったコーヒーの産地で、豆を食べたり葉を煎じたりする古い習慣もある。飲み物としてのコーヒーが広まったのは、海を渡ったイエメンからで(モカとコーヒーの広がり)、ハラールがその道の途中にあったとも言われるが、どの経路で渡ったかははっきりしない。
城壁の外では、夜になるとハイエナに肉を与える人がいる。いまは観光客も見物に来る。もとは飢饉の年にハイエナが人を襲わないよう粥を与えたのが始まりという話が伝わるが、いつから続いているのかはよく分からない。町の人々は、ハイエナを町の汚物を片づける隣人として受け入れてきた。