リチャード・ニクソン
概要
カリフォルニアの雑貨屋の子。反共で上院へ。副大統領8年。1960年、ケネディに負けた。1968年、大統領。中国、デタント、ベトナムからの撤退、金ドル交換停止。1972年、ウォーターゲート。1974年8月9日、辞任した唯一の大統領。「私は詐欺師ではない」。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ニクソン訪中AD1972年2月21日 · 訪問本文
リチャード・ミルハウス・ニクソンは1913年1月9日、カリフォルニア州南部のヨーバ・リンダで生まれた。父はレモン農園に失敗し、のちに近くのウィッティアでガソリンスタンドを兼ねた雑貨店を営んだ。母は敬虔なクエーカー教徒で、家は貧しかった。五人兄弟のうち、弟アーサーが幼くして病死し、兄ハロルドは長い結核の末に亡くなった。兄の治療費のために家計は苦しく、ニクソンは早朝から店の仕事を手伝いながら勉強した。

地元のウィッティア大学を出て、奨学金でノースカロライナ州のデューク大学法科大学院に進み、故郷で弁護士となった。第二次世界大戦では海軍に入り、南太平洋で補給の任務についた。1946年、共和党から下院議員選挙に出て、民主党の現職を共産主義に甘いと攻撃して当選した。下院の非米活動委員会では、国務省の元高官アルジャー・ヒスがソ連のスパイだとする告発を粘り強く追及して全国に名を知られた。1950年の上院選では、対立候補の女性議員を「ピンク・レディー」と呼んで共産主義者のように印象づけて勝った。この手口から、「トリッキー・ディック(ずるいディック)」というあだ名がついた。
1952年、ニクソンは39歳でアイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。選挙戦のさなか、支持者からの裏金疑惑が持ち上がると、彼はテレビで潔白を訴え、ただ一つ受け取った贈り物は娘たちがかわいがっている子犬のチェッカーズで、これだけは返さない、と語った。「チェッカーズ演説」は大きな同情を集め、彼は候補にとどまった。副大統領を8年務め、1959年にはモスクワの博覧会の台所の模型の前で、ニキータ・フルシチョフと資本主義と共産主義の優劣をめぐって言い合った。

1960年、大統領選挙でジョン・F・ケネディと争った。初めてテレビで中継された候補者討論会で、病み上がりで顔色の悪いニクソンは、日焼けして落ち着いたケネディに見劣りした。一般投票の差は約11万票、史上まれな接戦で敗れた。1962年にはカリフォルニア州知事選にも敗れ、記者たちに、もうニクソンを蹴飛ばして楽しむことはできなくなるぞ、と言い捨てた。政治生命は終わったと思われた。
だが1968年、ベトナム戦争と暴動で国が揺れる中、ニクソンは法と秩序を掲げ、声を上げない多数派の支持を訴えて大統領に当選した。翌年7月、彼は月面の宇宙飛行士たちと電話で話した(アポロ11号の月面着陸)。
大統領としてのニクソンが最も力を注いだのは外交だった。ベトナム戦争では、南ベトナム軍に戦いを肩代わりさせながら米軍を段階的に撤退させる一方、カンボジアに侵攻し、北ベトナムへの激しい爆撃も行った。1973年1月のパリ和平協定で、米軍の撤退が決まった。補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに秘密外交を進め、1972年2月、敵対してきた共産中国を訪問して毛沢東と会談した(ニクソン訪中)。同じ年の5月にはモスクワを訪れ、レオニード・ブレジネフと戦略兵器制限の協定に調印した。中ソの対立を利用して両国との緊張を和らげる外交だった。1971年8月15日には、ドルと金の交換を停止すると突然発表し、世界の通貨体制を揺るがした(金とドルの交換停止)。国内では、環境保護庁を作り、大気や水の汚染を規制する法律に署名している。

1972年6月17日、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会の事務所に、盗聴器を仕掛けようとした男たちが侵入して逮捕された。男たちはニクソン再選委員会につながっていた。11月の選挙で、ニクソンは49州で勝つ地滑り的な大勝を収めた。だが事件の捜査と報道は続いた。ホワイトハウスは関与を否定し、捜査を妨げようとした。
1973年、上院の公聴会で、大統領執務室の会話がすべて録音されていたことが明らかになった。特別検察官がテープの提出を求めると、ニクソンは10月、司法長官に検察官の解任を命じ、拒んだ司法長官と副長官が辞任した。「土曜の夜の虐殺」である。11月、ニクソンは記者たちの前で、私は詐欺師ではない、と言った。1974年7月、最高裁は全員一致でテープの提出を命じた。公開されたテープには、事件の直後、ニクソンがCIAを使ってFBIの捜査を止めさせるよう指示する会話が残っていた。決定的な証拠だった。議会で弾劾されることが確実になると、8月8日、ニクソンはテレビで辞任を表明し、翌9日、ホワイトハウスを去った(ウォーターゲート事件)。ヘリコプターに乗り込む前に、両手を広げてVサインをしてみせた。アメリカの大統領が任期中に辞任したのは、これが初めてで、今も唯一である。

1か月後、後任のフォード大統領は、ニクソンに対する包括的な恩赦を与えた。カリフォルニアに戻ったニクソンは、回想録や外交の本を次々に書き、歴代の大統領の外交の相談役として、少しずつ名誉を取り戻していった。1977年、英国の司会者デヴィッド・フロストのインタビューで、大統領がやるならば、それは違法ではないということだ、と語ったことは、彼の考え方をよく表す言葉として記憶されている。
1994年4月22日、ニクソンはニューヨークで脳卒中のため死んだ。81歳。生家の隣に建てられた記念図書館に葬られ、葬儀ではクリントン大統領が弔辞を述べた。中国との国交への道を開き、冷戦の緊張を和らげた外交家としての評価と、権力を濫用し、嘘をつき、辞任に追い込まれた大統領としての記憶は、今も一人の人物の中に並んでいる。