ルアンダの建設と奴隷の積出
概要
ポルトガルが港を築き、ここから300年で数百万の人が大西洋を越えて送られた。ブラジルへ渡った人の多くは、この港から出ている。
場所
-8.84°N 13.29°E · アンゴラ
本文
15世紀の末、ポルトガルの船はアフリカの西海岸を南へ下り、1483年にコンゴ川の河口に達した(コンゴ王国とポルトガルの接触)。その流域を治めていたコンゴ王国は、ポルトガルと友好を結び、王はキリスト教に改宗した。16世紀前半の王アフォンソ1世は、ポルトガル王に宛てた手紙の中で、ポルトガル商人が王国の民を勝手にさらって売っていると訴え、取引をやめさせるよう求めている。だが奴隷の取引は止まらなかった。大西洋の向こうでは、ブラジルの砂糖農園が働き手を求めていた。
コンゴ王国の南には、ンドンゴ王国があった。王の称号はンゴラといい、のちにアンゴラという地名はこの言葉から生まれた。ポルトガルは、コンゴ王国を通さずに直接奴隷を手に入れる場所を求め、ンドンゴの海岸に目をつけた。

1575年、ポルトガル王の命を受けたパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスが、兵と入植者を率いてこの海岸に到着した。喜望峰に達したバルトロメウ・ディアスの孫である。彼はまず沖合の細長い島に上陸し、翌年、対岸の本土に町を築いた。これがルアンダの始まりである。沖の島は、コンゴ王国で貨幣として使われていた小さな貝の産地でもあった。ノヴァイスには、この土地を征服して入植させる権利が与えられていた。
ポルトガルは内陸へ兵を進め、ンドンゴとの戦争は100年近く続いた。ポルトガル人は、内陸から攻め込んできた戦士集団インバンガラを雇い、ンドンゴの村々を襲わせた。戦争で捕らえられた人々が、奴隷として海岸へ送られた。戦争そのものが、奴隷を生む仕組みになっていた。17世紀前半、この体制に立ち向かったのがンドンゴの女王ンジンガ女王である(ンジンガのポルトガル抵抗)。

内陸には奴隷の取引を行う市場が置かれ、アフリカ人やポルトガル人とアフリカ人の混血の仲買人が、さらに奥地から人々を連れてきた。首や手を縄や木の枷でつながれ、何百キロも歩かされた人々の多くが、海岸に着く前に命を落とした。ルアンダに着くと、彼らは囲いの中に入れられて船を待った。積み出される前には、集団で洗礼を受けさせられ、キリスト教の名を与えられ、焼き印を押された。魂を救うためだ、と説明された。
ルアンダとブラジルは、大西洋を挟んで深く結びついていた。ルアンダの商人の多くはブラジルとつながりを持ち、ブラジルの砂糖や酒、タバコがルアンダに運ばれ、人と交換された。1641年、オランダが奴隷貿易の利益を狙ってルアンダを占領すると、1648年にこれを取り戻す艦隊を送ったのは、ポルトガル本国ではなく、ブラジルのリオデジャネイロだった。
大西洋を越えて運ばれたアフリカの人々は、16世紀から19世紀までで1200万人を超えるとされる(大西洋奴隷貿易)。そのうち最も多くを送り出したのが、ルアンダを含むアフリカ中西部の海岸で、全体の4割を超える。ルアンダ一港から積み出された人の数は、研究によって100万人台から数百万人まで幅があるが、大西洋の奴隷貿易で最大級の港だったことは間違いない。行き先の多くはブラジルだった。ブラジルの言葉や音楽、宗教に、いまもアンゴラにつながる要素が多く残っているのはそのためである。

19世紀に入ると、イギリスが奴隷貿易を禁じ(イギリスの奴隷制廃止法)、軍艦で取り締まるようになった。ブラジルの独立を果たした後も奴隷の輸入を続けていたブラジルが、ようやく輸入を本格的に止めたのは1850年である。ポルトガルも植民地での奴隷制を段階的に廃止したが、その後もアンゴラでは強制労働が形を変えて続いた。
20世紀には、ポルトガル人の入植者が増え、ルアンダはコーヒーやダイヤモンド、石油を輸出する植民地の首都として大きくなった。1961年、独立を求める武装闘争が始まり、1974年にポルトガル本国で独裁が倒れると、翌1975年11月、アンゴラは独立した(ポルトガル領の独立)。だが独立と同時に内戦が始まり、2002年まで続いた。

ルアンダの南の海辺には、いまも奴隷貿易の時代の礼拝堂が残り、奴隷制の歴史を伝える博物館になっている。人々を大西洋の向こうへ送り出した港は、いまや人口数百万を抱えるアフリカ有数の大都市になった。