できごと

モガディシュの隆盛

Mogadishu at its Height
AD1331年(イブン・バットゥータの訪問)
年に諸説あり重要度 3
バントゥー系の人びと西アフリカの穀作農民イル汗国デリー・スルタン朝コイサンマムルーク朝チベットマリ帝国ヒンドゥーの小王国群エチオピア帝国マダガスカルマクリアカネム=ボルヌグレート・ジンバブエイスラムの都市国家群ハドラマウトイエメンアルワメリナ王国(拡大期)オリッサマスカットベナンチョーラ朝パーンディヤ朝シンハラ王国AD1331年(イブン・バットゥータの訪問)モガディシュ
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概要

インド洋交易の北の要。イブン・バットゥータは、ここの人が一日に何度も食べる様子と、織物の質の高さを書き留めている。

場所

モガディシュ
2.05°N 45.32°E · ソマリア

関わった人(1)

イブン・バットゥータAD1304年2月24日–AD1369年頃 · 訪れた

本文

アフリカの東岸は、季節風で動く海の道に面している。冬は北東から、夏は南西から風が吹き、帆船はそれに乗ってアラビア、ペルシア湾、インドと東アフリカの間を一年で往復できた。その道筋に、港市が南北に連なった(スワヒリ海岸の交易都市)。モガディシュはその北の端にあり、アラビアとインドから来た船が最初に着く港の一つだった。

町はアラブやペルシアから移り住んだ商人と、土地の人々が混じり合って育った。10世紀ごろに移住者が町を開いたという伝承がある。1269年の年記を刻んだモスクが残り、13世紀には自前の銅貨も鋳造していた。南の港市を通じて内陸の金も一時はここを経由していたとされるが、やがて南のキルワがその流れを握る(キルワとインド洋交易)。

1331年ごろ、イブン・バットゥータがこの町を訪れ、詳しく書き残した(イブン・バットゥータの旅)。船が港に着くと、町の若者たちが小舟で漕ぎ寄せてくる。それぞれ食べ物を盛った器を携え、商人一人ずつに「これは私の客だ」と名乗りを上げる。商人はその若者の家に泊まり、品物の売り買いもその家の主人を通して行う。土地の取引のしきたりを知らない外来の商人を、町の家々が分け合って面倒を見る。客の取り合いが、そのまま制度になっていた。

イブン・バットゥータの旅に関わる図版:MS Arabe 2291 تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار (cropped)
イブン・バットゥータの旅Wikimedia Commons أبو عبد الله محمد بن جزي ابن بطوطة · Public domain

町を治めていたのは「シャイフ」と呼ばれる君主で、イブン・バットゥータは彼の招きで数日をすごした。君主は土地の言葉で話し、アラビア語も解した。裁判官はエジプトから来た人だった。金曜の礼拝の後、君主が天蓋をかざされて行列する様子も描いている。

この客を引き受けるしきたりは、後のソマリ社会で「アッバーン」と呼ばれた仲介と保護の仕組みに通じるものだとされる。よそから来た者は、土地の誰かを後ろ盾にしなければ商いも旅もできない。後ろ盾になった者は客の身と財産を守り、そのかわりに手数料を得る。言葉も法も違う者どうしが取り引きするための、知恵の詰まった制度だった。

モガディシュの住居地域とアメリカ軍のヘリコプター(1992年)
モガディシュの住居地域とアメリカ軍のヘリコプター(1992年)Wikimedia Commons TSGT PERRY HEIMER · Public domain

食事の量には驚いている。ギーで炊いた米を大きな木の皿に盛り、鶏や肉や魚、野菜の煮込みを添える。熟していないバナナを乳で煮たもの、酢漬けのレモンやマンゴー、生姜も出た。この町の人は一人で、自分たち旅人が何人も集まったほどの量を食べる、と書き、ひどく太っている、とも書いた。

織物の質にも触れている。モガディシュで織られた布は比べるものがないほど上等で、エジプトなどへ運ばれていた。金や象牙を中継して稼ぐだけでなく、自分の町で物を作って売る港だったことになる。

モガディシュの荒廃した通り"Green Line"。この通りは北と南にモガディシュを分けるものとなっており、部族闘争の境界線でもある。
モガディシュの荒廃した通り"Green Line"。この通りは北と南にモガディシュを分けるものとなっており、部族闘争の境界線でもある。Wikimedia Commons PH1 R. ORIEZ · Public domain

イブン・バットゥータはモガディシュを発った後、南へ下ってモンバサとキルワに寄った。彼の記録の中で、モガディシュは大きくにぎやかな商業の町として、キルワは美しく整った町として描き分けられている。同じ海岸の港市でも、それぞれに顔があった。

15世紀初めには、明の鄭和の船団(鄭和の南海遠征)がこの町にも来航した。鄭和に従った費信の『星槎勝覧』は、この町を「木骨都束」と記し、石を積んだ四、五階建ての家が並んでいると書いている。雨が少なく、土地はやせていたという。

新しい道路(2015年)
新しい道路(2015年)Wikimedia Commons VOA · Public domain

だが15世紀末、インド洋の様子は一変する。1499年、インドからの帰途にあったヴァスコ・ダ・ガマの艦隊が、モガディシュに砲撃を加えて通り過ぎた。その後、ポルトガルが東アフリカの港を力で押さえにかかったが、モガディシュは支配の外に残った。町は内陸のソマリ人の勢力と結びながら、交易の町として続いていく。

いまのモガディシュはソマリアの首都で、長い内戦の傷を負った町でもある。それでも旧市街のハマル・ウェインとシャンガニの二つの地区には、古い港町の名残がとどめられている。イブン・バットゥータの記録は、ヨーロッパ人が来る前のインド洋の港市が、どんなしきたりで回っていたかを伝える数少ない目撃談になっている。

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