ガダルカナルの戦い

概要
半年の消耗戦で日本軍は撤退した。戦死より餓死と病死が多く、「餓島」と呼ばれる。以後、太平洋の戦線は押し返される一方になる。
場所
-9.65°N 160.16°E · ソロモン諸島
本文
1942年6月、日本の海軍はミッドウェー海戦で主力の空母4隻を失った。それでも南太平洋では、アメリカとオーストラリアを結ぶ航路を断つための進出が続いていた。その一環として、7月、海軍はソロモン諸島南部のガダルカナル島に飛行場を造りはじめた。設営に当たったのは、軍属の作業員が主で、守備の兵は少なかった。
8月7日、飛行場がほぼ完成したところへ、アメリカ海兵隊の第1海兵師団が上陸した。日本軍にとって予想外の反攻だった。飛行場は占領され、アメリカ軍の戦死した飛行士の名をとってヘンダーソン飛行場と名づけられた。翌8日の夜、日本の重巡洋艦を中心とする艦隊が駆けつけ、連合軍の巡洋艦4隻を沈める大勝を収めた(第一次ソロモン海戦)。だが、上陸部隊を運んできた輸送船団には手を付けずに引き揚げたため、海兵隊は島に居座ることになった。

日本の陸軍は、上陸したアメリカ軍の規模を小さく見積もっていた。まず送られたのは、一木清直大佐が率いる先遣隊のおよそ900人だった。8月21日の夜、彼らは海兵隊の陣地に正面から突撃し、機関銃と砲火を浴びてほぼ全滅した。9月には川口清健少将の率いる約6000人が、飛行場の南の尾根から夜襲をかけたが、これも撃退された。10月には第2師団が送られ、総攻撃をかけたが、密林の中を予定どおりに進めず、またも敗れた。少しずつ兵を送っては、そのたびに壊滅する。戦力の逐次投入の典型として、後々まで語られることになる。
兵を一度に送れなかったのは、飛行場がアメリカ側の手にあったからである。昼間はヘンダーソン飛行場の飛行機が周辺の海を見張り、日本の輸送船は近づけなかった。そこで日本の海軍は、足の速い駆逐艦に兵と物資を積み、夜のあいだに島へ運んで朝までに引き返す方法をとった。アメリカ側はこれを「東京急行」と呼び、日本側では「鼠輸送」と呼んだ。だが駆逐艦が運べる量は限られ、大砲や重い装備、十分な食糧は届かなかった。物資を詰めたドラム缶を海に流し、陸から引き寄せる方法も試みられたが、多くが流された。

海の上でも消耗が続いた。8月から11月にかけて、両軍の艦隊は島の周辺で何度もぶつかり、10月には日本の戦艦2隻が夜間に飛行場を砲撃して一時使えなくした。11月の第三次ソロモン海戦では、日本は戦艦2隻を失い、大規模な輸送船団も壊滅した。島の北の海峡は、沈んだ艦船の多さから「鉄底海峡」と呼ばれるようになる。空の戦いでは、ラバウルから往復2000キロ近くを飛ぶ日本の搭乗員たちが、腕のよい者から順に失われていった。
島の日本兵は、飢えと病に倒れていった。食糧はたちまち底をつき、木の芽や草、トカゲ、虫まで食べた。マラリアと赤痢、栄養失調が広がり、立ち上がれない者が増えた。日本兵たちは、自らの島を飢えの島、「餓島」と呼んだ。島に送られた日本の将兵は3万を超え、そのうち2万人余りが死んだ。戦闘で死んだのは5000人から8000人ほどで、残りは餓死と病死だったとされる。アメリカ側の陸上戦闘の戦死者は1600人ほどだった。

12月31日、大本営は島からの撤退を決めた。1943年2月の上旬、駆逐艦による3度の夜間の撤収作戦で、およそ1万人余りが島を離れた。アメリカ側は、日本軍が新たな増援を送っていると考えていたため、撤収はほとんど妨げられなかった。大本営はこれを国民に「転進」と発表した。退却という言葉を使わなかったのである。
ガダルカナルの戦いは、太平洋の戦争の流れを変えた。半年のあいだに、日本は兵だけでなく、多くの艦艇と飛行機、なにより熟練した搭乗員と輸送船を失った。工業力に勝るアメリカは、失ったものをすぐに埋め合わせ、さらに増やしていった。この後、日本は守りに回り、アメリカ軍はソロモン諸島からニューギニアへ、さらに中部太平洋へと、島づたいに北上してくる。その先にはサイパンの戦いと硫黄島の戦い、そして沖縄戦が待っていた。