ジューコフ
概要
農民の子。毛皮職人の徒弟。騎兵。1939年、ノモンハンで日本軍を破った。レニングラード、モスクワ、スターリングラード、クルスク、ベルリン。5月8日、ドイツの降伏文書を受け取った。「勝利の元帥」。スターリンに疎まれ、フルシチョフに使われて捨てられた。
関わったできごと(1)
スターリングラードの戦いAD1942年8月23日 · 包囲を指揮本文
ゲオルギー・ジューコフは1896年12月1日、モスクワの南西カルーガ県のストレルコフカ村で、貧しい農民の家に生まれた。父は靴職人でもあった。村の学校を出ると、11歳でモスクワに出て、伯父の毛皮工房で徒弟として働いた。
1915年、第一次世界大戦で召集され、騎兵になった。下士官として戦い、聖ゲオルギー十字章を二度受けている。1917年のロシア革命のあと、1918年に赤軍に加わり、内戦を騎兵として戦った。その後も騎兵の指揮官として昇進を重ね、1930年代には騎兵師団、騎兵軍団を率いた。

1937年、スターリンの大粛清が赤軍を襲い、多くの将軍が逮捕・処刑された。ジューコフも上官との関係を問われて党の会議で糾弾されたが、逮捕は免れた。粛清で上の世代がいなくなったことが、彼の急な出世を可能にした面もある。
1939年夏、満洲国とモンゴルの国境のハルハ河で、日本の関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突した(ノモンハン事件)。現地に送られたジューコフは、兵と戦車、補給を密かに集め、8月20日に総攻撃をかけた。戦車と航空機を組み合わせて両翼から回り込み、日本の第23師団を包囲して壊滅させた。この戦いで彼はソ連邦英雄の称号を受けた。日本はこの敗北を国民に詳しく知らせなかったが、日本の対ソ戦の構想に影を落とした。

1941年1月、ジューコフは参謀総長に任じられた。6月22日、ドイツがソ連に攻め込む(独ソ戦の始まり)。前線は崩れ、7月末、ジューコフはキエフを放棄して兵を引くべきだとスターリンに進言した。スターリンは激怒して彼を参謀総長から外したが、9月、キエフ周辺では60万人を超える兵が包囲された。
その後のジューコフは、危機の前線に次々と送られる火消し役になった。9月には包囲が始まったレニングラードに飛び、防衛を立て直した(レニングラード包囲)。10月にはドイツ軍が迫るモスクワの防衛を任され、12月5日から始まった反攻で敵を押し返した。ドイツ軍が初めて大きく退いた戦いだった。
1942年8月、スターリンの代理である最高副司令官となった。ヴォルガ河畔ではスターリングラードの戦いが続いていた。ジューコフは参謀総長ワシレフスキーとともに、市街で敵を引きつけておき、手薄な両翼のルーマニア軍を破って包囲する作戦を立てた。11月の「天王星」作戦で、ドイツ第6軍の約30万人が包囲された。一方、ほぼ同じ時期にジューコフ自身が指揮したモスクワ西方のルジェフでの「火星」作戦は、大きな損害を出して失敗し、ソ連では長く語られなかった。
1943年1月、ソ連邦元帥となる。夏のクルスクの戦いでは、ドイツ軍の攻勢を予測して、まず深い防御陣地で受け止め、消耗させてから反撃に出る作戦を支持した。1944年の「バグラチオン」作戦では白ロシアのドイツ中央軍集団を壊滅させる戦いを調整し、1945年には第1白ロシア方面軍を率いてベルリンへ向かった。4月16日に始まったゼーロウ高地の攻撃では、ドイツ軍の頑強な抵抗に遭って大きな犠牲を出した。南からはコーネフの軍がベルリン一番乗りを競い、スターリンは二人を競わせた。5月8日の深夜、ベルリン郊外のカールスホルストで、ジューコフはドイツ国防軍のカイテル元帥から無条件降伏の文書を受け取った。6月24日、赤の広場の戦勝パレードでは、白馬に乗って閲兵した。

戦後、スターリンはこの「勝利の元帥」の人気を恐れた。1946年、ジューコフは戦利品の横領や功績の独り占めを問われ、オデッサ軍管区、さらにウラル軍管区へ左遷された。
スターリンが死ぬと(スターリンの死)、ジューコフは表舞台に戻った。1953年、秘密警察を握るベリヤの逮捕に軍人として加わり、1955年には国防相となった。1957年6月、党幹部会の多数がフルシチョフを解任しようとしたとき、ジューコフは軍用機で中央委員たちを地方からモスクワに運び、ニキータ・フルシチョフを救った。だが同じ年の10月、フルシチョフは彼を国防相から解任した。軍を党の統制から外そうとした、という理由だった。

引退後、ジューコフは回想録を書いた。1969年に出版されたが、検閲で多くが削られた。当時の最高指導者レオニード・ブレジネフが戦争中に一介の政治将校だったことに触れる一節が、出版の条件として書き加えられた、という話がよく知られている。1974年6月18日、モスクワで死んだ。77歳。遺骨はクレムリンの壁に納められた。
ジューコフは犠牲を顧みない指揮官だったとも言われる。アイゼンハワーの回想によれば、彼は地雷原に出会ったら歩兵をそのまま進ませると語ったという。一方で、彼がいなければ戦争はもっと長く、犠牲はもっと大きかったという評価もある。

人柄は苛烈だった。部下を怒鳴りつけ、命令に従わない指揮官を銃殺すると脅すことも珍しくなかった。一方で、スターリンに面と向かって反論できる数少ない軍人でもあった。フルシチョフ失脚後の1965年、戦勝20周年の記念式典で彼が姿を見せると、会場から長い拍手が起きたという。公式の歴史から消されかけた元帥は、国民の記憶の中では「勝利の元帥」のままだった。1995年、モスクワの赤の広場に近いマネージ広場に、馬に乗った彼の像が建てられた。