フリードリヒ2世(大王)
概要
父に嫌われ、逃亡に失敗して親友の処刑を見せられた。王になると即座にシュレージエンを奪い、七年戦争を耐え抜く。フルートを吹き、ヴォルテールと文通した。
関わったできごと(1)
オーストリア継承戦争AD1740年 · 攻める側本文
1712年1月24日、ベルリンに生まれた。父はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世。倹約と軍隊を何より重んじ、「軍人王」と呼ばれた人である。宮廷の贅沢を切り詰め、そのぶん兵を増やし、背の高い兵士ばかりを集めた近衛連隊を自慢にしていた。

息子は父の望むような子に育たなかった。フランス人の家庭教師からフランス語の詩や哲学の本を教わり、髪を巻き、フルートを習った。父はそれを憎んだ。息子の本を取り上げ、フルートを壊し、人前で杖で打ちすえ、辱めた。
1730年、18歳のとき、母方の親戚であるイギリスの宮廷へ逃げようとした。計画は事前に漏れ、捕らえられた。父は息子を脱走兵として軍法会議にかけ、死刑さえ口にした。共に計画を練った親友の若い士官カッテは、11月、王子の監禁されていたキュストリンの要塞で首をはねられた。父は息子を窓辺に立たせ、それを見させた。王子は気を失ったという。

その後、王子は父に従うふりを覚えた。地方の役所で行政の実務を学び、父の決めた相手と結婚した。妻とはほとんど一緒に暮らさなかった。ラインスベルクの城で音楽と読書に囲まれた数年を過ごし、権謀術数を説いたマキャヴェリを批判する本を書いた。その原稿は、文通を始めていたフランスの文人ヴォルテールの手を借りて出版された。
1740年5月、父が死に、28歳で王になった。人々は哲学者の王を期待した。即位してすぐ、拷問をほぼ廃止し、検閲を緩めた。ところが同じ年の12月、オーストリアのマリア・テレジアが即位した隙を突いて、豊かなシュレージエンに軍を進めた(オーストリア継承戦争)。マキャヴェリを批判した本を出したばかりの王が、正面からの侵略に出たのである。初めての大きな戦いでは、負けたと思って戦場を離れたが、その間に部下の将軍が勝っていた。

シュレージエンを手に入れたプロイセンは、ヨーロッパの大国の一つになった。オーストリアはそれを許さず、長年の宿敵フランス、さらにロシアと手を結んだ。1756年、包囲されることを恐れたフリードリヒは、先に隣国ザクセンへ攻め込み、七年戦争が始まる。人口でも兵の数でもはるかにまさる三つの大国を相手に、7年間戦い続けることになった。
1757年には、ロスバッハでフランス軍を、ロイテンでオーストリア軍を、数で劣る兵で破った。だが1759年、クーネルスドルフでロシアとオーストリアの連合軍に大敗した。その夜、「すべては失われた」と書き、自ら命を絶つことを考えた手紙が残っている。毒薬を持ち歩いていたとも伝えられる。1760年には、首都ベルリンが一時占領された。

救ったのは偶然だった。1762年1月、ロシアの女帝エリザヴェータが死んだ。跡を継いだピョートル3世はフリードリヒを熱烈に崇拝していて、すぐに戦争から手を引き、奪った土地を返した。翌年の講和で、プロイセンはシュレージエンを守り通した。この出来事は「ブランデンブルク家の奇跡」と呼ばれる。
戦争の後は、荒れた国の立て直しに力を注いだ。湿地を干拓して農地を開き、移民を呼び込み、1763年には学校の決まりを定めて子どもを学校へ通わせようとした(プロイセンの義務教育)。飢饉に強い作物として、ジャガイモの栽培を各地に命じた(じゃがいものヨーロッパ普及)。宗教については、人はそれぞれ自分のやり方で救われればよいと書き、カトリックもユダヤ教徒も国の役に立つなら受け入れた。1772年にはロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアとともにポーランドの一部を分け取りにした(ポーランド分割)。

ポツダムに建てた小さな宮殿サンスーシ(「憂いなし」)で、毎晩のように自分の作ったフルートの曲を演奏した。作った曲は100を超える。1750年にはヴォルテールを宮廷に招いたが、才気の強い二人はやがて衝突し、3年後にヴォルテールは逃げるように去った。それでも文通はのちに再開し、生涯続いた。
王は国家の第一の僕である、と書いている。自分を神から権力を与えられた者ではなく、国に仕える者として位置づけた。粗末な軍服を着たまま、朝早くから書類に目を通し、自ら国中を見回った。一方で、農民を領主に縛りつける仕組みには手を付けず、軍の士官は貴族に限った。

晩年は妻とも離れ、愛犬たちと暮らした。1786年8月17日、サンスーシの椅子の上で亡くなった。74歳だった。犬たちと並んで庭に葬られることを望んだが、その願いはかなわず、ポツダムの教会に葬られた。遺体は第二次世界大戦の後に各地を転々とし、ドイツ統一の翌年の1991年、ようやく望みどおりサンスーシの庭に眠った。
「大王」の名とともに、ドイツでは長く理想の君主として語られた。ナチスの時代には、ヒトラーが大戦末期まで総統地下壕にその肖像を掛け、最後の奇跡を待ったという。啓蒙を語りながら侵略をためらわなかった王の姿は、いまも二つの顔のまま評価されている。