じゃがいものヨーロッパ普及
概要
アンデス原産。16世紀にスペインが持ち帰ったが、200年、「聖書に出てこない」「ハンセン病を起こす」と嫌われて、家畜の餌だった。プロイセンのフリードリヒ2世は、農民に栽培を命じ、効かないので、畑に見張りを立てて「王の作物だから盗むな」と触れさせた。農民が夜に盗んで植えた。フランスではパルマンティエが同じ手を使った。同じ面積で穀物の2〜4倍を養え、地中にあるので軍隊に踏まれない。ヨーロッパの人口が増えた。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
本文
じゃがいものふるさとは、南アメリカのアンデスの高地である。いまのペルーとボリビアの境、チチカカ湖の周辺で、7000年から1万年ほど前に、野生の芋から栽培されるようになったと考えられている。トウモロコシが育たないほどの高く寒い土地でも実る芋は、アンデスの人々の暮らしを支えた。インカの人々は、夜の寒さで凍らせ、昼の日差しで乾かし、踏んで水を抜いた保存食チューニョを作り、国の倉に積み上げて飢饉や戦に備えた(チューニョと倉)。品種は数千にのぼる。
16世紀、インカを征服したスペイン人が、この芋に出会った(インカ帝国の滅亡)。じゃがいもは、トウモロコシやトマトとともに大西洋を渡り(コロンブス交換)、1570年代にはセビリアの病院が患者の食べ物として買い入れた記録が残っている。やがてイタリアやネーデルラント、ドイツ、イングランドへと伝わった。日本にも、オランダの船がジャワのジャガタラ(いまのジャカルタ)を経て江戸時代の初めに運んできたとされ、それがじゃがいもの名の由来といわれる。

だが、ヨーロッパの人々は、この新しい食べ物をなかなか口にしようとしなかった。理由はいくつも挙げられている。聖書に出てこない植物であること。ナス科に属し、毒草として恐れられていたベラドンナなどの仲間で、実際に芽や緑に変わった皮には毒があること。種ではなく芋を植えて増やす、見慣れない育て方であること。でこぼこした形が皮膚の病を思わせ、ハンセン病を起こすという噂まであったこと。どこまで本当にそう信じられていたかは地域によって違うが、200年近くのあいだ、じゃがいもは多くの土地で家畜の餌か、貧しい人々の飢えをしのぐ食べ物にとどまった。
その中で、早くから主食になったのがアイルランドである。イングランド人の地主に土地を握られ、狭い区画しか耕せない小作人たちにとって、同じ広さの畑で穀物よりずっと多くの人を養えるじゃがいもは、生きるための作物だった。収穫した芋は茹でるだけで食べられ、粉に挽く手間も、パンを焼く窯も要らない。牛乳と合わせれば、必要な栄養のかなりの部分が賄えた。実りは土の中にあるので、軍隊に畑を踏み荒らされても、穀物ほどには失われなかった。

18世紀の半ば、じゃがいもを国の力で広めようとしたのが、プロイセン王フリードリヒ2世(大王)である。度重なる戦争と凶作に苦しむ国で、パンの代わりになる作物が要った。1756年、王は各地の役人に、じゃがいもの栽培を農民に勧め、その育て方と食べ方を教えるよう命じた。同じような命令はその後も繰り返し出されている。七年戦争で国土が荒れ、1770年代の初めにヨーロッパ各地が凶作に見舞われると、じゃがいもを植えていた地方の強さがはっきりした。
フリードリヒについては、有名な話がある。王は自分の畑にじゃがいもを植えさせ、兵に見張らせた。ただし、見張りは昼だけで、夜はわざと手を抜かせた。王が番をさせるほど貴重な作物ならと、農民たちは夜にこっそり芋を盗み出し、自分の畑に植えた、というのである。この話は後の時代に広まったもので、同時代の記録による裏づけは無い。それでも、ポツダムのサンスーシ宮殿の庭にある王の墓には、いまも訪れた人々がじゃがいもを供えていく。

フランスでじゃがいもの普及に尽くしたのは、薬剤師のアントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエである。七年戦争でプロイセン軍の捕虜となった彼は、収容所で毎日のようにじゃがいもを食べさせられ、それで健康を保ったことに驚いた。帰国後、彼はじゃがいもの栄養を研究して論文を書き、1772年にはパリの医学部が、じゃがいもは食用に適すると認めた。パルマンティエはパリ郊外の畑にじゃがいもを植えて昼だけ兵に守らせ、夜に人々に盗ませた、国王ルイ16世にじゃがいもの花を贈り、王が上着の胸に、王妃マリー・アントワネットが髪に飾った、といった話も伝わる。フリードリヒの話とよく似ていて、どこまでが事実かは分からないが、宮廷を巻き込んだ宣伝で、じゃがいもへの偏見が薄れていったことは確かである。いまもフランス料理には、じゃがいもを使った料理に彼の名を冠したものがある。
じゃがいもは、ヨーロッパの人口を押し上げた。1700年に1億人ほどだったヨーロッパの人口は、1800年には1億8000万人ほど、1900年には4億人ほどに増えている。その理由は、衛生の改善や農業の変化など多くのものが重なっているが、2011年に発表された経済学者ナンとチエンの研究は、1700年から1900年にかけての旧世界の人口の増加と都市化の、およそ4分の1をじゃがいもの普及で説明できると推計した。安い食べ物が増えたことで、農村から都市へ出て工場で働く人々を養うこともできるようになった。じゃがいもは、産業革命を下から支えた作物でもあった。

だが、一つの作物に頼りすぎることには、大きな危うさがあった。アイルランドでは、19世紀の前半には人々の食べ物のほとんどがじゃがいもになり、それも少数の品種に限られていた。1845年、アメリカから渡ってきたとみられる疫病が畑を襲い、芋が地中で黒く腐っていった。何年も続いたこの不作は、100万人ともいわれる死者と、さらに多くの移民を生む大飢饉となる(アイルランドのジャガイモ飢饉)。アンデスからやって来た芋は、ヨーロッパの多くの人々を飢えから救い、同時に、一つの国を飢えの底へ突き落とした。