ニコライ2世
概要
1891年、大津で日本の巡査に斬られた。戴冠式で1300人が圧死した。日露戦争、血の日曜日、ドゥーマ、ラスプーチン。1917年3月、列車の中で退位。1918年7月、エカテリンブルクの地下室で家族と共に撃たれた。2000年、ロシア正教会が聖人にした。
関わったできごと(3)
日露戦争1904年 · 皇帝血の日曜日事件AD1905年1月22日 · いなかった二月革命(ロシア)AD1917年3月8日(露暦2月23日) · 退位本文
1868年5月18日、サンクトペテルブルク郊外の離宮ツァールスコエ・セローで、のちの皇帝アレクサンドル3世の長男として生まれた。父は大柄で頑健な専制君主で、息子は小柄で穏やか、礼儀正しく、家族を何より愛する青年に育った。教師たちは語学や歴史を教えたが、国を動かす実際の仕事に触れさせる機会は少なかった。

1890年から翌年にかけて、皇太子として東方への長い旅に出た。エジプト、インド、セイロン、清を回って日本に着き、1891年5月、大津で警備の巡査津田三蔵にサーベルで頭を斬りつけられた(大津事件)。傷は額から頭にかけて2か所で、命に別状はなかった。同行していたギリシアの王子が杖で二の太刀を防いだとされる。日本政府は国を挙げて謝罪し、明治天皇が自ら見舞った。旅の帰りには、ウラジオストクでシベリア鉄道の起工式に臨んでいる。
1894年11月、父が49歳で急死し、26歳で即位した。自分は皇帝になる準備ができていない、と義理の従兄弟に漏らしたと、その回想録にある。即位の直後、ドイツのヘッセン大公家の公女アリックスと結婚した。英国のヴィクトリア女王の孫娘で、ロシア正教に改宗してアレクサンドラと名乗った。即位の翌年、地方議会の代表たちが政治への参加を願うと、彼はそれを「無意味な夢」と退け、父と同じく専制を守ると宣言した。

1896年5月、モスクワで戴冠式が行われた。祝いの品が配られるホディンカの原に50万人ともいわれる群衆が押し寄せ、将棋倒しで1300人以上が死んだ。その夜、皇帝夫妻は予定どおりフランス大使館の舞踏会に出た。外交上の配慮だったが、民衆の目には冷酷に映った。夫妻のあいだには4人の娘、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアが生まれ、1904年、待望の皇太子アレクセイが生まれた。しかしアレクセイは、ヴィクトリア女王の家系に伝わる血友病を受け継いでいた。小さな傷や打ち身でも内出血が止まらず、命に関わった。
1904年、満洲と朝鮮をめぐって日本と戦争になった(日露戦争)。ロシアの敗北を予想する者は少なかったが、旅順が落ち、翌年5月にはバルト海から回航した艦隊が日本海海戦で全滅した。戦争のさなかの1905年1月22日、首都で皇帝に請願しようとした労働者の行列に軍が発砲し、多くの死者が出た(血の日曜日事件)。民衆の「皇帝はわれらの父」という素朴な信頼は、この日に大きく崩れた。各地でストライキと反乱が広がり、彼は10月、市民の自由と議会(ドゥーマ)を約束する詔書に署名せざるをえなかった。しかしその後も議会を何度も解散し、専制の権限を手放そうとはしなかった。首相ストルイピンは農村の改革を進めたが、1911年に暗殺された。

宮廷には、シベリアの農民出身の修道者ラスプーチンが出入りするようになった。彼が祈るとアレクセイの出血が止まったように見えたことから、皇后は彼を神の遣いと信じた。皇太子の病は国家の秘密とされたため、外の人々には、怪しげな男が皇后を操っているようにしか見えなかった。
1914年、第一次世界大戦が始まった。ロシア軍は東部戦線で大きな損害を出し続けた。1915年、彼は前線の大本営に移って自ら総司令官となり、首都の政治は皇后に任された。皇后はラスプーチンの助言を聞いて大臣を次々に替え、政府は混乱した。1916年12月、皇族のユスポフ公らがラスプーチンを殺した。

1917年3月、首都ペトログラードでパンを求めるデモが兵士の反乱に変わった(二月革命(ロシア))。首都へ戻ろうとした皇帝の列車はプスコフで止められ、将軍たちは退位を迫った。彼は息子の病を考えて、自分とアレクセイの退位に署名し、位を弟ミハイルに譲ったが、ミハイルは受けなかった。300年続いたロマノフ朝(ロマノフ朝の始まり)は、こうして数日で終わった。その日の日記に、周りは裏切りと臆病と欺瞞ばかりだ、と書いている。
退位後、一家はツァールスコエ・セローに軟禁され、8月にはシベリアのトボリスクへ移された。十月革命でレーニンたちボリシェヴィキが政権を握ると、1918年4月、一家はウラルのエカテリンブルクの商人の館、イパチェフ館に移された。内戦で反ボリシェヴィキの軍が町に迫った7月17日の未明、一家は移動すると言われて地下室に集められ、ユロフスキーが率いる銃殺隊に撃たれた。皇帝と皇后、5人の子、医師、料理人、従者、女中の11人だった。50歳だった。

遺体は森に隠され、ソ連の時代を通じて場所は秘密とされた。皇女アナスタシアが生き延びたという噂が広まり、その名を名乗る女性も現れたが、のちのDNA鑑定で否定されている。1991年に9人の遺骨が発掘され、2007年には残る2人、アレクセイとマリアの遺骨が見つかった。1998年、遺骨はサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク大聖堂に葬られ、大統領ボリス・エリツィンは葬儀で、この罪は私たち皆にあると述べた。そのエリツィンこそ、1977年に共産党の州の責任者として、党の決定によりイパチェフ館を取り壊した人物だった。館の跡には「血の上の教会」が建っている。
2000年、ロシア正教会は一家を、信仰を守って苦難を受けた「受難者」として聖人に加えた。善良な夫であり父だったが、激動の時代の皇帝としては力が足りなかった、というのが多くの歴史家の見方である。専制を手放して立憲君主となる機会は何度もあったが、彼はそれを最後まで選ばなかった。