最澄
概要
比叡山に天台宗を開いた。奈良の大寺と論争し、独立した戒壇を求めつづけ、死後7日目に認められる。
所属
日本関わったできごと(1)
最澄と空海の入唐AD804年 · 渡唐本文
最澄は767年(766年とも)、近江国滋賀郡、琵琶湖の西岸に生まれた。父の三津首百枝は、中国からの渡来人の子孫と伝える一族の人で、熱心な仏教の信者だった。幼い名は広野という。12歳で近江の国分寺に入り、行表という僧に学んだ。785年、19歳で奈良の東大寺の戒壇で正式に僧となる戒を受けた。この戒壇は、30年あまり前に唐から来た鑑真が開いたもので、日本で正式な僧になるには、ここか、東国と九州の二つの戒壇のどれかで戒を受けなければならなかった。

国の公認の僧となれば、奈良の大寺で出世の道が開ける。だが最澄は、受戒からわずか3か月ほどで故郷の近くの比叡山に登り、小さな草庵を結んだ。そのとき書いた『願文』で、最澄は自分を、愚かな者の中でも最も愚かな者、狂った者の中でも最も狂った者、と呼び、悟りに至るまでは世の中に出ない、と誓っている。都の寺の豊かさと政治との近さに、背を向けたのである。788年、山中に小さな堂を建て、薬師如来を祀った。いまの延暦寺の根本中堂の始まりとされる。
最澄が山中で読みふけったのが、中国の天台宗の書物だった。6世紀の智顗が『法華経』を中心に体系づけた教えで、すべての人が等しく仏になれると説く。鑑真が持ってきた書物の中に、その注釈書が含まれていた。
山にこもる若い僧の名は、やがて都に知られる。784年に長岡京、794年に平安京へと都を移した桓武天皇は、奈良の大寺の政治への口出しを嫌い、新しい仏教を求めていた。最澄は宮中に仕える僧に取り立てられ、802年には京都の高雄山寺で天台の講義を行って評判を得た。比叡山が新しい都の北東にあたり、鬼門を守る山として重んじられたというのは、後の時代に強調された話である。
804年、最澄は遣唐使の船で唐へ渡った(最澄と空海の入唐)。長期の留学ではなく、すでに名のある僧が短期で学ぶ「還学生」としてである。別の船には、まだ無名の空海が乗っていた。最澄は天台山に登り、天台の高僧に教えを受け、経典を書き写した。さらに帰りの船を待つあいだに密教の灌頂も受け、禅と大乗の戒も授かった。天台・密教・禅・戒の四つを一身に受け継いだことが、のちの比叡山の幅の広さの元になる。在唐は8か月ほどだった。

805年に帰国すると、病床の桓武天皇は最澄を厚く迎え、806年、天台宗に毎年2人の僧を出家させる枠を認めた。これが日本の天台宗の始まりとされる。だが同じ年、後ろ盾の天皇が死んだ。代わって、本格的な密教を2年学んで帰った空海が脚光を浴びる。最澄は年下の空海に礼をつくして弟子入りし、灌頂を受け、経典を借りて写した。だが空海は、密教は書物ではなく師から直接伝えるものだとして、ある経典の注釈書の貸し出しを断った。最澄の愛弟子の一人も空海のもとへ去り、二人の交わりは途絶えた。
晩年の最澄は、二つの論争に力を注いだ。一つは、東国にいた法相宗の学僧徳一との、仏になれる者となれない者がいるのかをめぐる論争である。もう一つが、戒壇の問題だった。比叡山で育てた僧も、奈良の東大寺の戒壇で戒を受けると、そのまま奈良に残ってしまう。最澄は818年から、比叡山で独自に大乗の戒を授け、12年間山から出さずに育てる制度を朝廷に願い出た。その中で、一隅を照らす者こそ国の宝である、という一節を書いている。奈良の僧綱は激しく反対した。誰が僧を認めるのかという、国家と仏教界の根幹にかかわる争いだったからである。

願いが許されないまま、822年6月、最澄は比叡山で死んだ。56歳だった。その7日後、朝廷は比叡山での大乗戒壇の設立を許した。翌年、山の寺は桓武天皇の時代の年号を取って延暦寺の名を受けた。866年、朝廷は最澄に伝教大師の号を贈った。同じ日に、弟子の円仁も慈覚大師の号を受けている。
最澄の願いどおり、比叡山は国家の公認から独立して僧を育てる場となった。その山から、のちに法然、親鸞、栄西、道元、日蓮が出る。日本の鎌倉時代の新しい仏教の開祖の多くが、若き日にこの山で学んでいる。比叡山が日本仏教の母山と呼ばれるのは、そのためである。