サモアとトンガの海の交流
概要
数百kmの海を隔てた島々が、婚姻と貢納と儀礼で結ばれていた。トンガの支配が及ぶ範囲は、陸ではなく航路の届く範囲で決まっている。
場所
-13.83°N -171.77°E · サモア独立国
本文
サモアとトンガの島々に最初に人が来たのは、およそ3000年前のことだった。独特の文様をつけた土器を携えた人々が、西のメラネシアから船で渡ってきた(ラピタ土器の広がり)。彼らはこの海域で千年ほどを過ごすうちに、土器を作るのをやめ、言葉と暮らしを少しずつ変えていった。ポリネシアと呼ばれる文化は、このサモアとトンガのあたりで形になったと考えられている。
そこから人々は、さらに東へ漕ぎ出した(ポリネシア人の太平洋拡散)。クック諸島やソシエテ諸島を経て、ハワイへの到達、アオテアロアへの到達、そしてラパ・ヌイへ。ポリネシアの島々に広がった人々の多くが、祖先の地として語り継いだ「ハワイキ」は、この西のポリネシアを指すとも言われる。

故郷に残った人々の世界も、海でつながっていた。トンガの主島トンガタプとサモアのウポル島は、直線でおよそ900キロ離れている。その間を、帆と櫂を備えた大型の双胴船が行き来した。数百キロ先の島と、山向こうの村と、どちらが近いか。船があれば、海のほうが近い。
航海に羅針盤や海図は使わない。星が昇り沈む方角を覚え、うねりの向きと形を体で感じ、陸に帰る鳥の群れや雲の色から島の位置を読む。その知識は、歌や物語の形で親から子へ伝えられた。ふだんの行き来は、身につけた技を持つ航海者がいて初めて成り立っていた。

10世紀ごろ、トンガでは聖なる王トゥイ・トンガの系譜が始まったと伝えられる。天の神タンガロアと地上の女から生まれた子が初代になった、という伝承である。12世紀ごろから、トゥイ・トンガの力は海を越えて広がった(トンガ海上帝国)。トンガタプには、王の墓として切り石を積み上げた方形の段丘がいくつも残っている。
トゥイ・トンガのもとへは、各地から貢ぎ物が届いた。サモアの上質な敷物、フィジーの赤い羽根や木材。王はそれに返礼し、娘や姉妹を遠くの首長に嫁がせ、また嫁を迎えた。サモアの名家の女性がトンガの王家に入り、その子が高い位を継ぐことも多かった。「支配」というより、婚姻と贈与でつながる関係の網に近い。

サモアの側にも、それを語る伝承がある。トンガの支配を受けていたサモアで、兄弟の戦士トゥナとファタがトンガ人を追い出した。退いていくトンガの王が「勇敢な戦士だ」とたたえ、その言葉がサモアの名高い首長の称号マリエトアの由来になったという。伝承の細部は確かめようがないが、両者が戦い、敬意を交わし、縁を結び直す間柄だったことを伝えている。
考古学も、この行き来を裏づける。石斧の材料になった玄武岩を化学的に調べると、どの島の石切り場から来たかが分かる。サモアのトゥトゥイラ島で切り出された石は、フィジーやクック諸島など遠く離れた島々から見つかっている。木材が乏しいトンガは、フィジーの東の島々から船材を得ていたとされる。
言葉も、系統がつながっている。サモア語とトンガ語は、マオリ語やハワイ語と同じポリネシアの言葉の仲間で、数詞や体の部分を表す語の多くが互いに似ている。千年以上前に分かれた言葉が、いまも聞き取れるほどの近さを残している。
15世紀ごろからトンガでは、聖なる王のほかに政治を担う王の系統が立ち、海の向こうへの影響力は形を変えていった。18世紀にクックの太平洋航海がこの海域を訪れたとき、トンガは「友愛諸島」と名づけられた。その頃にも、トンガとサモアとフィジーを結ぶ婚姻と交易の網は、まだ生きていた。海は境界ではなく、道だった。
船の形も、島々の間で行き来した。18世紀ごろには、トンガの人々がフィジーの東の島で、フィジーの技法を取り入れた大型の双胴船を造らせていたと伝えられる。造船の職人の中にはサモア系の人々もいたという。一つの船に、三つの島々の技と材料が組み合わされていた。