バトゥ
概要
チンギスの長男ジョチの子。凍った川を道にして冬に進み、ルーシを潰してハンガリーまで達した。大ハーンの死で引き返し、ヴォルガに国を建てる。
所属
キプチャク汗国本文
1207年ごろ、モンゴル高原で生まれた。父はチンギス・ハンの長男ジョチ、バトゥはその次男である(チンギス・ハン)。兄にオルダがいたが、一族は弟のバトゥを家の跡継ぎに立てた。

父ジョチには、生まれにまつわる影があった。チンギスの妻ボルテは、結婚して間もなく敵の部族メルキトに攫われ、救い出されて戻ってきた直後にジョチを産んだ。『元朝秘史』によれば、後継者を決める席で、次男チャガタイはジョチを「メルキトの落とし子」と罵り、二人は取っ組み合いになった。チンギスはジョチを自分の長男として扱い続けたが、ハーンの位を継ぐのは三男のオゴデイと決まった。ジョチの家は、帝国の中心から遠い西の端を割り当てられた。征服がまだ及んでいない草原を、モンゴルの馬の蹄が届くかぎり、という言い方が伝わっている。そのジョチも、1225年から1227年ごろ、父より先に死んだ。
1235年、オゴデイは都カラコルムに一族を集め、西方への大遠征を決めた。総大将に選ばれたのがバトゥである。チンギスの四人の息子の家から、それぞれ長子にあたる王子たちが兵を率いて加わった。オゴデイの子グユク、トルイの子モンケらである。作戦を実際に立てたのは、チンギス以来の老将スブタイだったとされる。スブタイは十数年前にも、カスピ海の北を回ってルーシの諸侯の軍を破ったことがあり、西方の地理を知っていた。

1236年、遠征軍はまず、ヴォルガ川中流のヴォルガ・ブルガールを滅ぼした。翌年には、黒海の北の草原に住むキプチャク(ポロヴェツ)の人々を討った。そして1237年の冬、ルーシに入った(バトゥの西征)。
冬を選んだのには理由がある。ルーシの土地は森と川と沼に覆われ、夏には大軍が動きにくい。だが冬になれば川は凍り、平らな氷の道になる。騎馬の軍勢は凍った川の上を進み、町から町へと速やかに移動した。12月、リャザンが落ちた。年が明けた1238年2月には、北東ルーシの中心ウラジーミルが攻め落とされ、大公の一族は教会に立てこもったまま焼き殺された。3月、大公ユーリー2世もシチ川のほとりで討たれた。

軍勢は北西の大都市ノヴゴロドに迫ったが、その手前で引き返した。春が来て雪が溶け、沼と泥が行く手をふさいだためとされる。帰り道では、小さな町コゼリスクが7週間にわたって抵抗し、モンゴル軍はこれを「悪しき町」と呼んだと伝えられる。
1239年から南に向きを変え、1240年12月、ルーシの古都キエフを落とした(キエフ・ルーシ)。数年後にこの地を通ったローマ教皇の使節は、草原に散らばる無数の骨と頭蓋骨を見た、と書いている。キエフを中心とした諸公の世界は、ここで大きく崩れた。
1241年春、軍はさらに西へ進んだ。一隊はポーランドへ入り、4月9日、レグニツァでポーランドとドイツの騎士の連合軍を破った。その二日後の4月11日、バトゥとスブタイの本隊は、ハンガリーのモヒの平原でハンガリー王ベーラ4世の軍を破った(モヒの戦い)。夜の間に川の上流と下流から別々に渡り、橋を守る敵を挟み撃ちにした。ハンガリーの軍は壊滅し、王はアドリア海の沿岸まで逃れた。その冬、モンゴル軍は凍ったドナウ川を渡り、さらに西へと偵察の部隊を送った。ヨーロッパは震え上がった。
1242年の春、軍は突然引き返した。前年の暮れに大ハーンのオゴデイが死んだという知らせが届いたからである。次のハーンを選ぶ会議に出るためだった、と長く説明されてきた。だが、バトゥは会議に出ていない。彼はモンゴル高原へは戻らず、ヴォルガ川の下流で軍を止め、そこに腰を据えた。撤退の本当の理由は、会議への思惑のほか、兵と馬の疲れ、ハンガリーの草原の狭さなど、いくつもの説がある。
遠征の途中、バトゥはグユクと激しく対立していた。祝宴の席で、グユクらがバトゥを、髭の生えた女だなどと罵ったと伝えられる。オゴデイは息子を叱って呼び戻した。そのグユクが次のハーンに選ばれそうだったことが、バトゥが会議に出なかった理由の一つと考えられている。バトゥは病を口実に出席を断り、1246年にグユクが即位した。2年後、グユクは大軍を率いて西へ向かい、その途中で急死した。バトゥを討つつもりだったのではないかと見る歴史家もいる。1251年、バトゥは自分と親しいモンケを推してハーンに立て、帝国の中で最も力のある王族となった。

ヴォルガ下流のほとりに、彼は都サライを築いた。天幕と宮殿の並ぶ都で、のちに東西の商人が集まる大きな町に育った。こうしてジョチの家の国、ジョチ・ウルスが生まれた(キプチャク汗国)。ロシアでは金帳汗国、日本ではキプチャク汗国とも呼ぶ。バトゥはルーシの地を直接は治めなかった。諸公の位はそのまま残し、そのかわり、公位につくにはサライに来て臣従を誓い、ハーンの許しの文書を受けなければならないとした。やがて人口を調べて貢納を取り立てる仕組みも整えられ、逆らう者には軍が送られた。
1246年には教皇の使節カルピニが、1253年にはフランス王の使節ルブルクがサライのバトゥを訪ねて記録を残している。ルブルクは、バトゥが黄金で飾った大きな天幕の玉座に座り、客に対しては穏やかだが、人々は彼をひどく恐れていた、と書いた。モンゴルの側では、彼は「サイン・ハン」(よきハン)とも呼ばれた。

1255年ごろに死んだ。50歳に満たなかった。ジョチ・ウルスはその後も2世紀以上にわたってルーシを支配した。ロシアの側はこの時代を、のちに「タタールのくびき」と呼んだ。1480年にモスクワ大公がハーンへの貢納を拒んで決着をつけるまで、およそ240年続いたとされる。この時代に、モスクワはハーンの徴税を請け負うことで力を蓄え、のちのロシア国家の中心へと育っていった。