ナンマドールの造営

概要
珊瑚礁の上に玄武岩の柱を積んで、100近い人工島の都市を作った。柱の一本は数トンあり、どう運んだのかいまも分かっていない。
場所
6.84°N 158.34°E · ミクロネシア連邦・ポンペイ島
本文
太平洋の西部、ミクロネシアのカロリン諸島に、ポンペイという火山の島がある。周りを珊瑚礁に囲まれた直径20キロほどの島で、雨が多く、熱帯の森に覆われている。人がこの島に住み着いたのは、紀元前後から1千年紀の前半ごろと考えられている。太平洋に広がった人々の大きな移動の流れの中で(ラピタ土器の広がり)、海を渡ってきた人々の子孫である。
島の東岸の沖、テムエン島の脇の浅い珊瑚礁の上に、奇妙な遺跡がある。黒い石の柱を井桁に積み上げた壁が、海の中から立ち上がり、100近い人工の島を形づくっている。島と島のあいだは細い水路で区切られ、満ち潮になれば小舟で行き来できる。全体は長さ1.5キロ、幅0.5キロほどに広がる。ナンマドールという名は「間の空間」を意味するとされ、水路で区切られた町の姿を表している。その姿から「太平洋のヴェネツィア」とも呼ばれる。

壁の材料は玄武岩である。溶岩が冷えて固まるときに、自然に五角形や六角形の長い柱の形に割れたものを使っている。人々はこの柱を、丸太で井桁を組むように縦と横に交互に積み上げ、すき間に珊瑚の塊や石を詰めた。最も大きな王墓とされるナンダウワスの外壁は、高いところで7メートルを超える。柱の一本の重さは数トンにもなり、もっと重いものもある。使われた石の総量は75万トンにのぼるという推計がある。
石が切り出されたのは、島の別の場所の玄武岩の露頭と考えられている。重い柱を、どうやって海辺まで運び、珊瑚礁の上の現場まで動かし、高く積み上げたのかは、よく分かっていない。筏で海を運んだという説が有力だが、確かめられてはいない。重い石をどう動かしたかという謎は、ブリテン島のストーンヘンジ(ストーンヘンジの完成)やイースター島のモアイと同じく、島の外の人々の想像を長くかき立ててきた。島の言い伝えでは、オロシパとオロソパという双子の魔術師が島にやって来て、呪文で石を空に飛ばして積み上げたと語られている。

人工島の造成は、12世紀ごろには始まっていたと考えられている。それ以前から珊瑚礁の上に人が手を加えていた跡もあり、何百年もかけて少しずつ広げられていったらしい。町は大きく二つに分かれていた。南西側は王とその一族、貴族が住む政治の区域で、北東側は祭祀と埋葬の区域で、神官が住み、王たちの墓が置かれた。ナンダウワスもこちら側にある。
この町を築いたのは、サウデルールと呼ばれる王の家だったと伝えられる。島の言い伝えによれば、サウデルールの王たちはポンペイの島全体を初めて一つに治め、島中の首長に食べ物や貢ぎ物をナンマドールへ納めさせた。人々は重い貢ぎを負わされ、王たちはしだいに横暴になったとも語られる。サウデルールの支配は数百年続いたが、やがてイショケレケルという英雄が他の島から来て最後の王を倒した、と伝承は伝える。その後、ポンペイの島は複数の首長が治める形に分かれ、ナンマドールは政治の中心ではなくなった。

この政変の時期は、伝承と遺跡の年代からおよそ17世紀の前半とされることが多いが、幅をもって考えられている。その後も神聖な場所として儀式に使われることはあったが、19世紀ごろには人が住まなくなり、水路は土砂で埋まり、マングローブと密林が石の壁を覆っていった。
19世紀に島を訪れたヨーロッパの船乗りや宣教師は、この遺跡を見て、失われた大陸の名残だとか、昔この海に来た外国人が造ったものだとか、さまざまな空想を書き立てた。だが今では、島の人々の祖先が自分たちの手で造った都であることに疑いはない。太平洋の島々には、イースター島の石像(モアイの造営)のように、限られた資源と人手で驚くほど大きな石の建造物を残した例がほかにもある。

ナンマドールは2016年に世界遺産に登録されたが、同時に危機遺産にも入れられた。水路に土砂がたまり、マングローブが根を張って壁を押し崩しつつあるためである。島の人々にとって、ここは今も祖先の霊が宿る特別な場所であり、むやみに立ち入るものではないとされている。