エルトゥールル号遭難事件
概要
日本を訪れたオスマン帝国の軍艦が帰途に台風で紀伊大島沖に沈み、500人以上が死んだ。島の住民が生存者69人を救った。
場所
33.47°N 135.86°E · 日本・和歌山県東牟婁郡串本町
関わった人(2)
アブデュルハミト2世AD1842年9月21日–AD1918年2月10日 · 使節を日本へ送ったオスマン帝国の皇帝明治天皇1852年–1912年 · 親書を受け、生存者の救護と送還を命じた本文
1887年、皇族の小松宮彰仁親王夫妻がイスタンブールを訪れ、日本とオスマン帝国の皇室の間に儀礼の行き来が始まった。その返礼として、アブデュルハミト2世は明治天皇に勲章と親書を届ける使節を送ることにした。乗せていく船に選ばれたのが、木造のフリゲート艦エルトゥールル号である。艦名はオスマン家の祖オスマン1世の父の名にちなむ。艦齢は26年に達した老朽艦で、海軍の中には遠い極東への航海に反対する声も強かった。それでも派遣が強行された裏には、インドや東南アジアのムスリムに、イスラーム世界の盟主としての帝国の力を見せたいという皇帝の思惑があったとされる。
エルトゥールル号は1889年7月14日にイスタンブールを出た。故障や資金不足に苦しみながら、寄港したインドやいまのインドネシアの港ではムスリムの歓迎を受け、11か月かけて1890年6月7日に横浜に着いた。6月13日、司令官オスマン・パシャを特使とする一行は皇帝の親書を明治天皇に奉呈した。オスマン帝国から日本への最初の親善使節だった。

ところが滞在中に艦内でコレラが出て、出発は遅れた。艦も乗員も長い航海で疲れきっていた。日本側は台風の時期が過ぎるまで待つよう勧めたが、一行はそれを振り切って9月15日に横浜を出た。日本に留まり続ければ帝国海軍の弱さを言いふらされると恐れたため、ともいわれる。
翌9月16日の夜、紀伊半島の南端に近い紀伊大島の沖で、エルトゥールル号は台風の強風にあおられ、樫野埼の東に連なる船甲羅と呼ばれる岩礁に打ちつけられた。浸水した機関部で水蒸気爆発が起き、艦は夜半までに沈んだ。司令官オスマン・パシャをはじめ600人以上が荒れた海に投げ出された。

岸に流れ着いた生存者の何人かは、暗闇の中で灯台の明かりを頼りに断崖をよじ登り、樫野埼灯台にたどり着いた。灯台守は言葉が通じないまま手当てをし、国際信号旗を指してもらって、遭難したのがオスマン帝国の軍艦だと知った。知らせを受けた樫野の人々と大島村長の沖周は、島の医師3人とともに村を挙げて生存者を探し、寺や学校に運んで手当てをした。台風で漁に出られず食べ物の蓄えも乏しかったが、住民は浴衣などの衣類、米、卵、サツマイモ、さらに非常用に飼っていた鶏まで差し出したと伝えられる。こうして69人が生き延びたが、司令官を含む587人が死亡または行方不明となった(人数には資料によって違いがある)。
村長の急報は電報と使者で県や政府に伝えられた。神戸にいたドイツの砲艦が大島へ向かい、生存者を神戸へ運んだ。明治天皇の意向で宮内省の侍医と日本赤十字社の要員が送られ、生存者は神戸で手厚い治療を受けた。10月5日、日本海軍のコルベット艦比叡と金剛が品川を出て、神戸で生存者を乗せ、翌1891年1月2日にイスタンブールへ送り届けた。2隻には少尉候補生として秋山真之らも乗っていた。日本国内では新聞社が義援金を集め、民間人の山田寅次郎はみずから義援金を携えてイスタンブールへ渡り、その後も長く現地に住んで両国の交流に尽くした。
オスマン帝国では遭難は殉難として新聞に大きく報じられ、島の人々の救助や日本政府の手当ても伝えられた。遠い日本への好感はここから始まったといわれる。のちに日露戦争で日本がロシアに勝つと、帝国では東郷平八郎にちなむトーゴーという名を子に付けることがはやったという。ただし両国が正式に国交を結んだのは、帝国が倒れてトルコ共和国となった後の1924年から1925年にかけてである。

この遭難がもう一度大きく語られたのは、1985年のことである。イラン・イラク戦争のさなか、イラクはイラン上空の航空機を期限後は無差別に攻撃すると宣言した。テヘランに取り残された日本人のために、トルコは航空機を出し、215人の日本人を国外へ運んだ。この出来事はエルトゥールル号の恩返しとして語られるようになった。もっとも、派遣の決定には当時のトルコ首相と日本の商社員の個人的な信頼関係が大きく働いたとされ、恩返しの物語は後から重ねられた面もある。いま串本町の樫野埼には慰霊碑とトルコ記念館が建ち、5年ごとに追悼式が開かれている。2007年からは沈没地点の水中調査も行われ、多くの遺品が引き揚げられた。